京の都が今日まで繁栄している背景には「風水」が大きく影響していると言われています。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、当時最強のセキュリティーシステムと言われた「鬼門封じ」の為にどのようなことが行われていたか、そして「鬼門」にあたる東北地方に住んでいるという理由だけで迫害された蝦夷の人々の悲しい物語が紹介されています。

京の都を守護する最強のセキュリティーシステム

実は京の都が1,200年以上続いたのは桓武天皇が施した最強のセキュリティーシステムが現在も稼働しているからでした。

「鳴くよ(794)ウグイス平安京」

日本人ならこのフレーズを知らない方はまずいないでしょう。794年、桓武天皇が平安京に都を遷した時、中国の風水に従い都市を設計しました。「四神相応(しじんそうおう)の地」といって、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎が配置された地への遷都を考えていたのです。玄武は船岡山、朱雀は巨椋池(おぐらいけ)、青龍は鴨川、白虎は山陰道に相当します。いわゆる、北に山、南に池、東に川、西に大道が配された土地が風水上最も良いとされていたのです。

そして、桓武天皇は鬼門にあたる北東の方角に鬼門封じとして、魔除けの猿を配備しました。今でも御所の北東の角「猿が辻」と、北東方向に位置する比叡山延暦寺、赤山禅院(せきざんぜんいん)、幸神社(さいのかみのやしろ)に猿の木彫りの置物が安置されていて京の都を守護しています。現在も京都市内にいるこの3匹の猿こそが1,200年間、京の都を護ってきたのです。桓武天皇が平安京の都市計画で一番最初に行ったのがこの鬼門封じでした。これこそが今も「稼働」している最強のセキュリティーシステムなのです。

鬼門は方角で言えば北東で、古来この方角は鬼が出入りすると信じられてきました。平安京の鬼門に位置する比叡山に、唐から帰国したばかりの留学僧最澄を送り、一乗止観院(いちじょうしかんいん)、今の延暦寺を建立させたのです。以後、比叡山は天台宗の総本山になり、日本仏教の各宗派の祖を生んだので「仏教の母」といわれるようになりました。

中国の風水の考え方では、東西南北で北東は陰から陽へ転化する方向で、反対の西南は陽から陰へ転化する方向とされています。このような不安定な方角を占いや易では注意すべき方向とし、非常に重要視しているのです。そのため季節の変わり目のような体調が不安定になる季節の変わり目、いわゆる「節句」のひとつである節分に豆まきをすることが徐々に慣習になっていくのです。豆は「魔」を「滅」っするものとして、鬼にぶつけるのです。

次ページ>>なぜ御所の北東塀の角はえぐられているのか

鬼門は奈良時代、天武天皇の時代頃から意識されていて、陰陽寮(おんみょうつかさ)という国の研究施設が設けられていたほどです。このような思想を国家鎮護のために一番重んじる時代だったので、京都御所の北東の塀の角などは内側にえぐるようにして造営されています(今もです。ちなみに皇居のお堀の北東、和気清麻呂の像が立つ角も鬼門封じのため、石垣がえぐられた形に造営されています)。

このような「欠け」は「陰」を意味し、消極性や拒否を表わしていて鬼の進入を拒否することを示しています。御所の北東のえぐれた塀の角は「猿が辻」と呼ばれ魔除けの意味を持ちます。そこには烏帽子をかぶり御幣をかついだ猿の彫刻が北東を向いて安置されているのです。京都御所の鬼門の方角を比叡山まで一直線に辿った場所にはさらに2匹の猿がいます。

そのうちの1ヶ所は幸神社(さいのかみのやしろ)です。出町柳駅から徒歩5分ほどの場所にある桝形(ますがた)商店街の裏手にひっそりと佇む古社です。ここには御所の「猿が辻」の猿と瓜二つの猿の像が安置されています。

ちなみに、桝形商店街の出町ふたばという和菓子屋さんの「水無月(みなづき)」と満寿形屋(ますがたや)の鯖寿司はとても美味しいのでオススメです。水無月は、通常京都では6月の終わりに食べる習慣のある和菓子です。下が氷をイメージしたういろうで、その上に粒あんがのっている三角形の和菓子です。

旧暦の6月は初夏で上半期の邪気払いと暑気払いとして皇室では、平安時代から6月16日に「嘉祥菓子」(かじょうがし)という16種類の菓子を食べる儀式があったそうです。それが後に都に住む庶民にも伝わったのでしょう。これに由来して、今では6月16日は「和菓子の日」と定められています。

さて、もう1匹は赤山禅院(せきざんぜんいん)にいる猿です。ここは比叡山の麓で叡山電鉄の修学院駅から歩いて20分ほどのところです。

修学院は下鴨神社があり、賀茂川と高野川が合流して鴨川になる三角州近くの出町柳駅から4つ目の駅で、間にある一乗寺駅や茶山駅といったエリアは沢山の京大生や京都造形芸術大の学生が住む場所でラーメン激戦区です。半径1キロほどのエリアに数十ものラーメン屋がひしめき合っています。

天下一品は全国区ですが、新福菜館、魁力屋、つるかめ、天天有などその他地元では知らない人はいないようなラーメン屋が沢山あり、その多くはこのエリアに本店を構えます。京都で人気の食べ物はどちらかというとコッテリやガッツリです。意外かも知れませんが、学生の割合が日本一多いことや、日本屈指の花街があるので昔から「肉食系男子」が多い(?)ことなどから肉や油モノ、コッテリ系を好む食文化が京都には確実に存在します。

修学院はまた、元外務大臣の前原誠司民主党議員のお膝元で、駅前の通りを修学院道に向かう途中に選挙事務所があります。

次ページ>>桓武天皇が行った「国家的規模の鬼門封じ」とは?

修学院離宮からほど近い赤山禅院は、888年に京都御所の鬼門を守るために最澄の弟子・円仁(えんにん)の遺命によって安慧(あんね)が建てた比叡山延暦寺の別院です。ここは私が毎年1月に「都七福神めぐり」で訪れる馴染みのある場所です。赤山禅院には本尊・赤山明神の他に七福神の1人「福禄寿」が祀られています。赤山禅院に安置されている猿の彫刻は、本殿の屋根の上に置かれています。

京の都は、比叡山の守護神・日吉大社の神獣である猿を合わせると、現在も4匹の猿によってしっかり固められていて、万全のセキュリティーシステムで守られています。

ちなみに、裏鬼門を守っている古社は、桓武天皇の皇后乙牟漏(おとむろ)の発願によって造営された洛西の古社で奈良の春日大社を勧請(かんじょう)した大原野神社です。

後世、御所から見て鬼門の方角には京大のそばにある吉田神社や、裏鬼門の方角に江戸末期新撰組の屯所となった壬生寺なども建てられました。これら鬼門、裏鬼門に位置する寺社仏閣は鬼門封じが創建の目的なので、毎年節分には追儺式(おにやらい)や鬼法楽(おにほうらく)=(節分祭)が行われ、大勢の参拝客が出て大変な賑わいを見せます。

このように、節分の日に鬼門封じの行事を京都の鬼門と裏鬼門で同時に行うことによって、邪鬼の侵入を防ぎセキュリティー体制をより強化しているのです。国家繁栄、国民安寧のために桓武天皇が政治生命をかけて取り組んだのが鬼門封じで、当時最重要としていた仕事が比叡山延暦寺の建立だったのです。

さらに桓武天皇はより国家的な規模で鬼門封じをしました。それは、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の東北遠征でした。征夷大将軍の「征夷」は東北地方の先住民である蝦夷(えみし)を征服するという意味です。そのため、明治時代直前まで続く幕府の将軍職の本来の役目は鬼門封じだったということです(本来の役目自体は時代とともに薄れていきましたが)。

田村麻呂は初代の征夷大将軍です。田村麻呂は東北遠征で30ヶ所以上の寺院や神社を建立し、本州の鬼門に潜む鬼を征服し鬼門封じをしました。当時東北地方に住んでいた何の罪もない蝦夷の人達がとても気の毒です。本州の東北の端にある津軽地方は、京の都にとって鬼門中の鬼門だったので、この地には特別に7つの神社を建立し、それらを広範囲に渡って北斗七星形に配置して全ての神社に宝剣を埋めたそうです。

かつて中国では北方信仰があり、北斗七星を用いて悪霊を退散し鎮魂をする方法がとられていたそうです。田村麻呂は、それにならってこれら7社の神社を建立したといいます。東北遠征から戻ると、田村麻呂は都に戦場で亡くなった死者の鎮魂のためにお寺を建てます。

次ページ>>田村麻呂が建てた京都随一の人気を誇る寺院とは?

どこだか分かりますか? 日本人なら誰でも知っている「清水寺の舞台」で有名な清水寺です。清水寺は日本人なら誰もが知っている有名な場所ですが、その由来が京の都の鬼門封じに通じていたことを理解して訪れる人はあまりいないのではないでしょうか?

清水寺の境内にある「音羽の滝」のそばに地主神社(じしゅじんじゃ)があります。近年は「縁結びの神様」として有名ですね。この神社は、謡曲「田村」にも謡われる場所ですが、この謡曲に出てくる地主神社の桜、御車返し(みくるまがえし)の桜は4月第3日曜日の桜祭の時に御所に奉納されるそうです。

御車返しは一本の木から八重と一重の花を同時に咲かせるとても珍しい桜の木で、江戸時代初期、後水尾(ごみずのお)天皇がここの桜があまりにも美しいので、もう一度愛でようと御車を引き返させたと伝わる名桜です。

京都には御車返しは2種類あって、品種は全く一緒ですが、車を返した人がそれぞれ違います。ひとつは後水尾天皇が御車を引き返してまで見たこの地主神社の御車返しで、もうひとつは平安時代に桓武天皇の皇子・嵯峨天皇が御車を引き返えさせたと伝わる京都御苑内の御車返しです。

地主神社の御車返しは1,200年以上経った現在もなお、都の鬼門封じのために涙を飲んで死んでいった罪のない蝦夷たちの鎮魂の献花となって京都御所に納められているのです。

坂上田村麻呂は死後、嵯峨天皇の命により山科の地に葬られました。田村麻呂は、死した後も甲冑に身をおさめ、太刀を身にまとい、弓矢を持ち、蝦夷の地、東北を睨んで今も土の中で仁王立ちしていると言われています。都の鬼門封じのため永遠の眠りについてなどないのです。

清水寺は都の鬼門封じのために犠牲となった蝦夷たちへの鎮魂の寺として都が遷された3年後の797年に建立され、今もなおその祈りは続いています。

今から20年ほど前の1994年、平安遷都1,200年紀が京都で開催された時、清水寺他計17ヶ所の京都の名所が世界文化遺産に登録されました。その時、蝦夷の首長と副首長だったアテルイとモレを追悼する石碑が清水寺の境内の片隅に建てられました。彼らは罪のない蝦夷を必死に守りながら前線で戦いながらも田村麻呂から和解を持ちかけられ捕らわれ、最後は朝廷の命令で処刑されてしまいました。

京の都が1,200年以上繁栄したことは、当時都から見て鬼門の方角に住んでいるというだけの理由で多くの人達が犠牲になったということを抜きにしては語れません。いつか皆さんが清水寺を訪れる時、地主神社で「恋みくじ」を引く時は、せめてそのような悲しい過去があったことを思い出してあげて下さい。

image by: Wikimedia Commons

 

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出典元:まぐまぐニュース!