三島由紀夫ボディビル仲間募集中「週刊新潮」創刊号復刻

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《文壇ボディビル協会設立したし。会員を募る。キャシャな小説家に限る。会長を川端康成氏にお願いしたい。目下会員は小生一人》

これは、作家・三島由紀夫による告知文である。ときに1956年、「週刊新潮」の創刊号(2月19日号、発売は同月6日)に設けられた「週刊新潮掲示板」というページでのこと。当時31歳の三島は、ついその前月に後楽園ジムでコーチについてボディビルを始めたところだった。ちなみに彼の代表作『金閣寺』が発表されたのもこの年のことである。


日本では大正時代から週刊誌が発行されていたが、それらはみな新聞社系だった。そこへ来て出版社系週刊誌として初めて登場したのが「週刊新潮」である。その創刊から今月でちょうど60周年の還暦を迎えたのを記念して「別冊週刊新潮」が発売された。この別冊では創刊号をまるごと復刻している。もちろん例の「掲示板」もそのまま再録されており、三島由紀夫のほか作家の谷崎潤一郎、評論家の小林秀雄、物理学者の湯川秀樹、さらには現在の財務相・麻生太郎の母親・麻生和子など豪華著名人による世間へのリクエストが確認できる。

「週刊新潮」は成功を収め、以後、各出版社から週刊誌が続々と創刊されることになる。その先鞭をつけた同誌の創刊号のなかから、記事をいくつかピックアップしながら、当時の世相などを探ってみたい。

高度成長の兆しと戦争の傷跡と


「週刊新潮」は、現在にいたるまで「金と女と事件」を誌面づくりの柱としている。だが、それにしては、創刊号はおとなしく、色気もあまりない印象を抱かせる。何しろグラビアにはヌードや水着どころか、女性芸能人がほとんど登場しない。せいぜい女優・有馬稲子の映画の撮影風景が巻末に載っているぐらい。巻頭グラビアには「東京のサラリーマン」と題するフォトルポルタージュがあり、続くページには「人と職業」と題して、「ミス・ツバメ」と称された国鉄(現JR)の特急「つばめ」の女性給仕が紹介されている。いまでいえば、新幹線のパーサーだ。

「つばめ」の走る東海道本線はこの時点でまだ全線が電化されておらず、米原以西では蒸気機関車が客車を引っ張っていた。全線電化が実現したのはそれから9カ月後の1956年11月で、東京〜大阪間の所要時間は30分短縮され7時間半となった。思えば、東海道新幹線が開業するのはそのわずか8年後のこと。これから11年をかけてやっと東京〜名古屋間にリニア新幹線が開業するという現在よりも、はるかに時代の流れは急で、変化は激しかったといえる。「経済白書」が「もはや戦後ではない」と宣言し、神武景気と呼ばれる大型景気が始まったのはまさにこの年のことだった。日本経済は戦後復興の段階を終え、いよいよ高度経済成長期へと入っていったのである。

とはいえ、戦争はほんの10年前のことで、傷跡はまだいたるところに残っていた。創刊号の「レター」の欄を見ると、戦時中に南洋の孤島に派兵されたという福岡県の男性が、兵舎の庭で飼われていたオウムの想い出話を投稿している。それによると、その男性ら若い兵士は、オウムが教えこまれた「オカアサン」という言葉を叫ぶたびに郷里の母をしのんだという。戦友のなかには死んでいった者も多数いた。《オウムに“オカアサン”と叫ばして生きがいをかんずるような生活はもうしたくない》との一文からは、投稿者の切実な思いが伝わってくる。

「大トロ的色気」とは何ぞや?


さて、先述のとおり「週刊新潮」の創刊号にはお色気がいまひとつ足りない。せいぜい「大人のマンガ・読むマンガ」というコーナーに艶笑小噺が数本目につく程度か。それでも、「タウン」という街場の情報やゴシップなど小ネタを集めたページの演劇欄には、歌舞伎座や東京宝塚劇場などと並んでストリップ劇場の演目が載っているのが時代だ。このうち日劇ミュージック・ホールの項目には、踊り子について「大トロ的色気」という謎の表現が出てくる。大トロ=肉感的ということか?

「タウン」のほかの欄を見ると、ラジオとテレビの情報が1ページにまとめられている。掲載順も扱われる情報数もラジオのほうが上。それも当然で、まだテレビ受像機は一般家庭に普及していなかったし、そもそも「週刊新潮」創刊の時点でテレビ局が開局していたのは東京・大阪・名古屋の三大都市圏にかぎられた。テレビの全国放送網が形成されるには、もうしばらく時間を要したのだ。テレビ欄で紹介されている番組を見ても、ドラマや音楽番組などはわずかで、舞台中継がほとんど。コンテンツの制作力からいっても、テレビはまだまだという状況だったことがうかがえる。

「タウン」でさらに目を惹くのはスポーツ欄。ちょうどこの年1月に開催されたイタリアのコルティーナ・ダンペッツォ冬季オリンピックで、猪谷千春がスキー回転で2位となり冬季五輪では日本選手初のメダルを獲得している。「コルチナの日章旗 ―猪谷理論証明さる―」と題する記事は、メダル獲得にいたるまでの猪谷の経歴を紹介したもの。それによれば、猪谷は父・六合雄(くにお)からスキーの英才教育を受けたのち、五輪出場のためアメリカに留学して練習を重ねた。一方で、五輪には日本国内の最終予選を経ずしての出場であったことから、スキー連盟内では問題となったらしい。そんな反対論も猪谷が実績を収め、世論の支持を得たことで打ち消されたという。

さて、スポーツ欄でいまひとつ目を惹くのが「ゴルフ場案内」。そこには《クラブの会員になったり、用具一式そろえるとか、凝れば金もかかろうが、会員のお伴で行くとか、都内に数ある練習場で楽しむなら金もかからない》という一文がある。拙著『タモリと戦後ニッポン』では、1957年頃にタモリの祖父と母親がゴルフ用品店を開いたものの、まだブームには早すぎて数年も経たずに撤退したというエピソードをとりあげた。それでも、くだんの記述から察するに、庶民のあいだでもゴルフを楽しもうという機運は徐々にできつつあったのだろう。

新聞社系週刊誌との違いとは?


「週刊新潮」創刊号の表紙は谷内六郎の抒情画が飾っている。谷内の表紙は、1981年に彼が亡くなるまで同誌の顔となった。今回の別冊には、スケッチ中の谷内の写真も掲載されている。その説明によれば、創刊当時「週刊誌の表紙は、女優の写真か有名画家の作品」というのが常識だったところへ、新進の谷内の起用は画期的な試みであったという。

こう言ってはなんだけれども、先述のとおり「金と女と事件」を柱としてきた同誌にあって、谷内の表紙は一種の毒消し役を担ってきたようにも思う。これはいまの「週刊文春」の和田誠の表紙にも同じことがいえるのではないか。

今回の「別冊週刊新潮」には創刊号復刻版のほか、過去の同誌の記事からとくに事件やスターをとりあげたものをセレクトした傑作選が収録されている。そのなかにも興味深いものがあるのだが、私としてはむしろ、「週刊新潮」の創刊までの経緯やエピソードが読みたかったところではある。

当時の出版社には、新聞社系の週刊誌のような取材網もノウハウの蓄積もなかった。それゆえ「週刊新潮」とそれに続いた出版社系週刊誌は、ニュースを直接追うのではなく、その第二報、あるいはニュースの裏面情報を提供したり、読み物、芸能人のゴシップなどに編集の重点を置くことになる(『昭和 二万日の全記録』第11巻)。このあたり、いまのネットのニュースサイトにも通じるところがある。とすれば、「週刊新潮」の創刊時の試行錯誤は、いまネットで何かを伝えようとしている人たちにきっとさまざまな示唆を与えてくれるに違いないのだが。
(近藤正高)