ああ、デカメロン、ああ!

ドラマ『わたしを離さないで』の時代設定がいつになっているかは知らないが、少なくとも峰岸(梶原善・演)が私と同世代だろうということはわかりました。「ザ・ベストテン」派か? それとも「ザ・トップテン」派か? マチャアキから徳光に司会が代わってがっかりした口か?


美和と恭子の関係も小康状態に


カズオ・イシグロの長篇小説『わたしを離さないで』を原作とするドラマも今回で第5話。陽光学苑から舞台がブラウンコテージに移ってから2回目となった。
陽光学苑ではいい雰囲気になりかけていた保科恭子(原作のキャシー・H。綾瀬はるか・演)と土井友彦(同じくトミー。三浦春馬・演)だったが、人間関係の中で孤立し、焦る酒井美和(同じくルース。水川あさみ・演)の介入によって関係は請われ、友彦と美和がカップルになってしまう。新天地であるコテージは3人が思っていたような楽しい場所ではなく、住人たちは刹那的な日々を送っていた。その中で孤独に耐えかねた恭子は、先輩である立花浩介(井上芳雄・演)にすがってしまう。
恭子と美和、友彦という三角関係に一旦の決着がついたのが前回だった。平和、というにはあまりに恭子に酷な展開だったので、視聴しながら悲鳴を上げた方もいたのではないだろうか。この恋愛関係を軸に緊迫感を醸し出す演出はドラマ独自のもので、原作とはまた違ったおもしろさがある。原作では恋愛とその後に来る体の関係についての思考はもっとさばさばとしたもので、登場人物たちがそれによって苦悩するということもあまりないのである。たとえば、こんな具合に(以下訳文はすべて土屋政雄)。

──誰かとセックスをしたいというようなときも、単刀直入でした。相手のところへ行って、「たまには、ぼくの部屋で過ごすなんてどう?」などと言います。

──コテージでのセックスを思い出すたび、わたしの頭には、凍るように寒い真っ暗な部屋で、一トンもの毛布をかぶってしているイメージが浮かびます。毛布と言いましたが、よく見れば古いカーテンがあり、カーペットの切れ端があり、いろいろなものの寄せ集めでした。(中略)まるで寝具の山を押し上げながらするようで、男の子としているのか、毛布としているのかわからなくなるほどでした。

この羞恥の欠如した叙述の感覚が、原作『わたしを離さないで』の特徴にもなっていることは以前書いた。前回のラストから今回の冒頭にかけて、綾瀬はるかファンには衝撃的なある場面が描かれたが、それもあっけらかんとした調子で語られるのである。気になる人は原作の第11章を読んで「スティーヴの置き忘れ」という言葉を探してみよう。
人間の感覚はすべて先天的に授かったものではなく、後天的に教育の結果として獲得する部分もある。原作はそのことについて非常に意識した書き方をしている、とまた指摘しておく。

あるのは希望? それとも落し物?


原作では全23章中の第12章から15章、すなわちちょうど物語の折り返し点で語られるのがキャシー・Hたちのポシブル(Possible)捜索行、つまりドラマ第5話のルーツ(roots)捜しだ。「可能性」から「起源」に用語が変更されたのは、視聴者にわかりやすく、という配慮だろう(原作、ないしはドラマの内容をご存じの方にはおわかりの用語だと思うので、あえて説明なし。この言葉を見るとマイクル・Z・リューイン『A型の女』を思い出す、とだけ書いておきます)。
ブラウンコテージの先輩住人・譲二(原作のロドニー。阿部進之介・演)の目撃情報をたよりに、美和と友彦、恭子と、譲二の恋人・あぐり(原作のクリシー。白羽ゆり・演)の5人は遠くの町までやってくる。そこは偶然、陽光学苑(原作のヘールシャム)で教えられた「のぞみヶ崎」の近所でもあった。海流の都合でいろいろなものが流れ着くため、失くし物が見つかるかもしれないという場所である。恭子と友彦は、そこを訪れる。

以前にも書いたとおり、のぞみヶ崎は原作では、実在の地名であるノーフォークのことである。ブリテン島の東端にあり、道がすべて行き止りになることから「ロストコーナー」と異名を取る土地だ。「ロストコーナー=遺失物保管所」という連想から、キャシー・Hは紛失したジュディス・ブリッジウォーターの音楽テープを捜しにノーフォークを訪れる。のぞみがあるからそこに行く、遺失物保管所だから訪ねる、そのニュアンスの差がドラマと原作の違いでもある。原作のそれは浮き世離れした雰囲気のあるエピソードだ。ドラマではそこに悔悟や憧憬、諦念といったさまざまな感情の流れを織り交ぜて見せた。双方読み応え、観応えのある演出であったと思う。

ここらで気分転換


小説のほぼ中間点ということで、のぞみヶ崎=ノーフォーク行きのエピソードにはチェンジ・オブ・ペース、すなわち気分転換の意味も付与されている。そこまで同じテンション、同一の語りの調子で綴られてきた物語が、そこで一旦休息の時間に入り、転調のための準備を整えることになる。長篇ではしばしば用いられる手法であり、小説『わたしを離さないで』はここで間違いなく転換点を迎えている。ドラマ版でも「猶予」という新しい概念が強調され、以降は新しい展開があることが暗示された。第6話からが物語の本番なのだろう。今回で完全に恭子たちの幼年期は終わり、青年期の儚い物語が始まるのだ。

海辺の町の情景が印象的な回だったが、原作でも美しく忘れがたい文章が出てくる章である。とても好きな箇所なので、長くなるが引用を許していただきたい。

──いま、あのときのことを思い出すと、胸に暖かさと懐かしさが込み上げてきます。小さな裏通りにトミーと一緒に立ち、これからテープ探しを始めようとしたあの瞬間、突然、世界の手触りが優しくなりました。一時間もの待ち時間に、あれ以上の過ごし方があったでしょうか。わたしは必死に自分を抑えました。そうしなければ、どうしようもなく笑い転げたり、小さな子供のように歩道を飛び跳ねたりしそうでしたから。

小説を読んでいると時折、筋の展開とは関係なくそこに留まっていたくなる文章に出会うときがある。チェンジ・オブ・ペース、一旦時が停まってまた動き出す小説の休憩所だから、余計にそうした感覚が強まるのかもしれない。小説を読む楽しさを存分に味わわせてくれる箇所なので、ドラマを観て印象に残った方は、ぜひ原作も手に取ってみていただきたい。

ほぼ原作に忠実な形でエピソードを処理した回であったと思う。ここまででほぼ物語の材料は出揃った。今夜放送される第6話は、予告篇を観た限りにおいてはオリジナル色が強く前面に押し出されたものになるようだ。おそらくはある程度の謎がここで明かされるのではないか。必見である。
(杉江松恋)