『わたしを離さないで』、先週放送された第4回のテーマはセックスだった。
セックス。
しかし、哀しく、侘しく描かれたセックスである。
冒頭の保科恭子(綾瀬はるか)によるナレーションがすべてを言い表している。


わたしたちがいるのはあらゆる可能性が剥ぎ取られた世界だから。
その中で幸せになる方法はとても、とても限られている。
たとえばそれは。

すべてを忘れ、その場限りの感情と快楽に没頭するだけの刹那の行い。
そうしたものとして「わたしを離さないで」はセックスを描いた。

カズオ・イシグロの人生狂騒曲


先週のレビューでも少し触れたが、カズオ・イシグロの原作小説『わたしを離さないで』においてセックスは、キャシー・H(ドラマにおける保科恭子)をはじめとする、「提供」を義務付けられて生まれてきたひとびとの無垢さや、彼らを管理する側の偽善性を際立たせる要素として用いられている。
キャシー・Hたちが育った施設、ヘールシャム(ドラマにおける陽光学苑)では性教育の授業も行われるのである。それも「生物学教室から等身大の骨格模型を持ち込み、それを使ってセックスとはどうするのかを見せ」るというやり方で。

等身大の骨格模型!
失礼ながらこのくだりを読んだとき、私の頭に浮かんだのは映画「モンティ・パイソンの人生狂騒曲」で描かれた性教育のコントだった(校長のジョン・クリーズが直々に妻とのセックスを披露して生徒たちに教える)。いや、この映画を連想したのは偶然ではないのかもしれない。なにしろ「人生狂騒曲」は、「人が生まれてから死ぬまでの7つの舞台」をオムニバス形式で描いた、壮大な人生絵巻だからだ(本国では1983年に公開されたこの映画をイシグロも観ているのではないかと思うのだが、どうなのだろうか)。

大人の階段昇る?


それはさておき、ヘールシャムにおける性教育は「骨格模型による実演」が象徴するように、よそよそしく、上滑りなものだった。エミリ先生(ドラマでは麻生祐未が演じる神川恵美子先生)は言う。「自分の体を恥じてはなりません、「肉体の欲求を尊重する」ことが重要です、双方がそれを望むなら性行為は「相手へのとても美しい贈り物です」と。さらに性教育の授業では、こんなことも告げられたのだった。

「[……]とくに、施設卒業生以外の人とするときは注意が必要です。外の人にとって、性はとても大きな意味を持っていて、誰が誰としたかで殺し合いさえ起こるほどです。その重要性はダンスやピンポンなどとは比較になりません[……]」(土屋政雄訳)

つまりダンスの相手の奪い合いや卓球の勝ち負けで起きる以上の深刻な諍いが存在しないような、純粋培養の場としてヘールシャムは存在しているということなのである。そのためにキャシー・Hたちは年頃になっても自分たちがセックスとどう向き合えばいいのかがわからず、とりあえずパートナーを見つけてしてみたり、自分たちがセックスをすることを期待されているのか否かについて議論をしてみたり、と問題の前でぐるぐると迷い続ける。
小説におけるヘールシャムは、子供でいることを永遠に保証してくれるかのように見える場所である。キャシー・Hたちは、そこからちぎり取られるような形で外に出され、コテージでの生活を開始することになる。セックスの問題は、子供から大人になるための重要な扉の1つだが、ヘールシャムの大人たちはそれについては言葉を濁し続ける。セックスには「生殖」に伴う行為という側面の他にもう一つ「大人であるための存在証明」の意味があるからだ。セックスの話題を口にしたとき、キャシー・Hたちはヘールシャムの禁忌に最も接近していたと言っていい。
永遠に大人にはなりきれないという存在の意味を、セックスは焙り出した。

すがる、ゆだねる、依存する


ドラマ「わたしを離さないで」は、セックスの問題にもう1つ別の意味を付け加えた。セックスには「抱きしめる」という行為が付帯する。その最中には相手の体温を感じることができ、1人ではないことを行為によって確認できる。それはもしかすると錯覚かもしれない。しかしその幻想にすがる人がいるということを否定はできないのだ。
行為によって友彦(三浦春馬)をつなぎとめようとする美和(水川あさみ)、コテージの住人が刹那的なセックスに耽っていることを軽蔑しつつも、抱しめられることに渇望を隠せなくなる恭子と、大人になって陽光学苑という場の庇護を得られなくなった登場人物たちは、どうしようもない孤独から逃れるためにもがき始めた。この部分はドラマが原作に付け加えた視点である。現実と物語内世界を橋渡しする重要な因子にもなるはずだ。

オリジナル要素の不穏さ


第4話ではもう1つオリジナルとして、真実(中井ノエミ)の住むホワイトマンションたちの住人の話題が出てきた。彼らは基本的人権についての勉強会を行い、自分たちが置かれた立場への抵抗活動を行おうと考えている。真実に招かれてマンションを訪れた恭子は、誘われたにも関わらずその活動への参加は拒んでしまう。自分たちが置かれた立場にもし違反すれば、厳しい罰が下されることを知ったからである。
この不穏な空気は、再登場した恵美子先生やマダム、龍子先生たちの交わした会話によってさらに強調されることになった。基本的にキャシー・H=恭子の語りのみで進行する原作には、こうした体制側の動きは描かれることがない。主人公の視点は常に自分の等身大の高さに置かれており、そこから見えるものしか語ることができないのだ。ドラマでは、その位置より上にカメラを動かし、俯瞰で一部の事態も描かれていくことになるのだろう。
監視社会の恐怖という要素は原作にはないものである。淡々と物語が進行していく中で自然に醸し出されてくるサスペンスが原作の魅力だったが、ドラマではさらに、背後に足音が迫り来るというスリルが追加されることになるはずだ。

今夜放送される第5回のエピソードは、原作ではノーフォーク行きとして語られる。そこにオリジナルの要素は絡んでくるのだろうか。絡んでくるとすれば、少しでも恭子たちの心が安らかになるようなものであればいいのだが。
(杉江松恋)