2011年、ドイツワールドカップ(W杯)決勝のPK戦で見せたビッグセーブを記憶している人も多いだろう。この大会はまだまだ未熟だった海堀を 大きく成長させた。その後、ロンドン五輪、カナダW杯ともに準優勝と、なでしこジャパンが積み上げた歴史とともに歩んできた海堀が、今年1月に突然引退を 発表した。

「ドイツW杯がピークだった」のか、「カナダW杯決勝での大量失点が尾を引いた」のか、果てには「澤(穂希)ロス」とまで囁か れ、引退の理由について多くの憶測が飛び交った。しかし、そのいずれでもないことは、海堀が乗り越えてきたこの2年間が証明している。感情表現が得意では ない彼女が丁寧に紡ぐ言葉には、プロとしての誇りと覚悟、そして感謝が溢れていた。

「自分でもスッキリしてるなって感じます(笑)」

  引退の決意を固めてから1カ月、海堀は言葉通りの表情を浮かべていた。決して平坦な道のりではなかったが、29歳までそのすべてをかけてきた世界から身を 引く、という決断は簡単にできるものではない。何度も気持ちは揺らいだ。"もし、こうしたら"、"でも、ああすれば......"。引退という結論を何度も熟考す る日々が続く。決意に至った理由は数多くあるが、その根底にあったのは、海堀自身の描くプロ像と、揺るぎない信条だった。

 もともとDFとしてプレーしていた海堀がGKへ転向したのは、一度離れていたサッカーに戻ってきた高校3年生のとき。フィールドでプレーしていた頃、ミスをGKにカバーしてもらっていたことを感じていた。だからこそ、GKとしてピッチに立ったときに"味方のミスをミスにしないプレー"をしたいという思いが生まれた。これは引退を決断するその瞬間まで信条として彼女を支え続けることになる。

 2012年、海堀はプロ契約を果たす。所属するINAC神戸レオネッサは強豪であり続けるために選手の契約はシビアだ。けれど契約が更新されれば、向こう1年は恵まれたサッカー環境が保証される。これまでに何人もの仲間がチームを去るのを見てきた海堀にとって、契約に揺れる皇后杯前はいつも自問自答する時期でもあった。

「1年契約だったので、毎年1度、皇后杯前に"来年1年、自分は本当に戦えるか?"と自分と向き合ってきました。したくてもできなかった仲間もいる。言い訳をしたくないし、甘えを持ちたくなかった。自分の中でのプロ像っていうのがあって、あえてプレッシャーをかけるのは、プロになって自分で変えたところでもあります」

 昨シーズンも例年通りに自問自答をした。そこで、いつもとは異なる感情が現れたのだ。

「今までだったら、もう1本頑張れていたところが頑張れなくなり、気持ちよく頑張れていたところが、耐えられていたところが、しんどいって思ってしまう」

 ステップアップのために、あふれ出ていた日々のアイデアは消え、追い詰められている自分に気づく。これまではどんなスランプに陥っても、先のイメージができていた。しかし、何も浮かんでこない。初めての出来事だった。

 1度は気持ちをチームに伝えたものの、チームは年明けまで再考の猶予を与えてくれた。

「このままだと続けらないと思う反面、皇后杯の戦いの中で、エネルギーが沸きあがってくるかもしれないという思いがあって、どっちに転ぶかわからない部分もあった。それに、これが最後って思ったら、そこで終わってしまうと思った」

 海堀はあえて自らの進退の結論を封印し、皇后杯に臨むことを決めたのだった。

 再び遡る。海堀に異変が起きたのは、2012年ロンドンオリンピック後のことだった。ある日、突然すべてのものが二重に見えた。症状はすぐに消えたり、しばらく出なかったりと気まぐれだったため、当初は大事と捉えていなかった。

 ドイツW杯からロンドン五輪にかけて、海堀を取り巻く環境は大きく変わった。その影響だろうとやり過ごした。ところが状況は悪化する。症状の出る頻度が上がり、確実に増えていく発症時間。当初下された診断は、筋肉と神経の繋がり部分に異常が生じ、筋力が低下する重症筋無力症の眼筋型――難病だった。どん底に突き落とされるとはこのこと。不安で押しつぶされそうになり、初めてサッカーを奪われるかもしれない現実と向き合うことになった。

「ケガは受け入れられても、病気ってなかなか受け入れられないものなんだと思いました。でも、膝が痛かったり、足首が悪かったり、誰もがケガのひとつやふたつ抱えてるじゃないですか。これもそういったもののひとつと思うようにした。プレーすると決めた以上、物が2つに見えてもそれは言い訳ですから」

 イメージするプレーができなくなることを恐れた彼女は、意外な行動に出る。

「これまで以上に練習して120%、130%の練習をやり続ければ、なんとか維持できると信じたかった。見えないなら、とにかく感覚を研ぎ澄まそうと思った。音とか、スタジアムの雰囲気を察知する力でカバーするしかなかったんです」

 海堀は自分の頭の中で言葉ではなく、映像をイメージして技術を身につけてきた。そこに活路を見出そうとした。GKコーチとともに、夜もチームを離れて自主トレーニングを重ね、感覚が身につくまで徹底的に体に叩き込んだ。すでに限界は超えていたが、このときの海堀には未来の自分へのイメージが沸いていた。もう一度W杯に出たいという一心で夢中で取り組んだ。

「少しでもよそ見をしたら今まで積み上げてきたものが崩れ落ちそうだった。だから感覚で体に覚え込まそうとしたんです」

 文字通り、血のにじむ努力を続けた1年で得た察知力は彼女の新たな可能性を生み、大きな自信につながっていった。

 2015シーズンを前に、海堀はひとりの眼科医師と出会う。治療についてあらゆる可能性を探っていた海堀はこの医師の言葉に救われた。

「重症筋無力症の眼筋型ではなく斜視だから、手術をすれば治るってハッキリと言ってくれたんです。これでW杯に間に合う!試合に出られることにつながるなら手術を受けようと迷わず即答していました。」

 手術は無事に成功。日常生活には全くの支障がないくらいに回復した。しかし、動体視力から生まれる俊敏性を強みとしていたGK海堀としては違和感を拭いきれなかった。判断がどうしても0コンマ何秒か遅れるのだ。そしてあるとき、恐れていたことが起きた。

 たった1度だけ、ふとした瞬間に斜視による物が二重に見える予兆を感じ取ったのだ。焦りを隠せなかった。

「手術を受けたことで本当に安心したし、この1年サッカーができたことをサポートしてくれたスタッフや先生に本当に感謝しています。でも......結局はまた症状が出るんじゃないかっていうこの恐怖心が自分の中で消えなかったんです」

 彼女が言う恐怖の最たるものは、試合中に再び発症するかもしれない恐怖だった。大事な場面でボールが2個に見えて勝負が決してしまっては、一緒に戦ってきたチームメイトの努力をも無にしてしまう。"味方のミスをミスにしないプレー"が海堀の目指す形であるにも関わらず、努力ではカバーしきれない理不尽なリスクがチームに降りかかることを何よりも恐れた。

「それが出てからでは遅いんです。致命傷のプレーが出てからでは......」

 折しもカナダW杯を戦い終えたなでしこジャパンは、集大成とも言えるリオデジャネイロ五輪へ向けて舵を切っていた。症状は改善されている。でも、この恐怖心をねじ伏せることが出来なければ、信条を貫くことはできない。それができない自分は、これまで培ってきた自らのプロ像に反する。

「ボールが2個に見えてたときは、その恐怖と戦ってた。いざ直ったら、今度は出るかもしれないという恐怖と戦わなければならなかった。結局は、その恐怖心を自分が克服できなかったんです」

 無心で臨んだ皇后杯が終わり、再び自分に問いかけたとき、海堀の心は穏やかだった。この感情が、彼女の選ぶ答えとなった。

(つづく)

早草紀子●取材・文 text by Hayakusa Noriko