2月ともなれば、そろそろ進路の決まった高校生が自動車学校に通い始める時期だ。先日、私が訪れた名鉄自動車学校(名古屋市緑区)でも学生服を着た生徒をちらほら見かけた。

名鉄自動車学校は、教習所にしてはやけにカーブの多いなかなかの難コースとなっている。というのも、1958年までこの場所には鳴海(なるみ)球場という野球場があり、教習コースは球場の形をそっくり引き継いでいるからだ。それは地図を見ても一目瞭然だろう。


1927(昭和2)年に竣工した鳴海球場では、球史に残る試合もたびたび行なわれてきた。1931年と1934年には全米選抜チームがここで全日本チームと対戦している。さらに特筆すべきは、1936年2月9日、いまからちょうど80年前のきょうから開催された、東京巨人軍と名古屋金鯱軍と設立まもないプロ野球(当時は職業野球と呼ばれた)チームによる試合だ。地元紙「名古屋新聞」は翌10日付の朝刊で次のように伝えている。

《昭和十一年度スポーツ日本の魅力――本社後援 名古屋野球倶楽部主催 東京巨人軍対名古屋金鯱軍の職業大野球第一回戦は九日の鳴海球場に豪華のゴールデン・ステージを展開した。前日来の妖雲は拭われて黄金光きららかに球場を飾り、北西の風やや強くグラウンドコンディションは湿潤ながら球技を競うには不足なく満天下注視の大血戦は中部日本から全日本へ強く逞しき跫音を印したのである》(原文の旧仮名遣いや旧字体、読点は適宜修正した。以下に引用する新聞記事も同様)

対戦したうち金鯱軍の母体となったのは、ほかでもないこの新聞を発行する名古屋新聞社だった。それだけに記事からはただならぬ力の入れようがうかがえる。

力が入った理由はそればかりではない。この試合が球史に残るものだったからだ。この4日前、2月5日には巨人と金鯱のほか大阪(現・阪神)タイガース、名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)、東京セネタース、阪急軍(現・オリックスバファローズ)、大東京軍の7チームが参加して日本職業野球連盟の創立総会が東京で開催された。つまり、9日の試合はこの連盟に属するプロ球団同士による初めての試合だったのである。

日本初のプロ野球チーム同士による試合については、これより前、1923年夏の日本運動協会・天勝野球団戦とする説もある。それでも、現在のプロ野球に直接つらなる球団・組織による初めての試合が、この鳴海球場での巨人・金鯱戦であることは間違いない。

ただし、日本職業野球連盟の公式戦はこの年の夏まで持ち越される。2月の試合は、その14日より巨人が前年に続き2度目のアメリカ遠征を予定していたことから、壮行試合として実施されたものだった。

経験豊富な巨人と急造の金鯱


試合は当初、第5戦まで開催が予定され、1日・2日および11日に鳴海球場、8日・9日は静岡の草薙球場で行われるはずだった。しかし1日・2日は大雪で中止。このあと8日・9日・11日と鳴海でのみの全3戦に短縮されたものの8日は雨天中止となり、結局9日から11日まで3日間連続での開催となった。どうにか初戦にこぎつけた9日も、前日の雨で鳴海球場のコンディションは悪く、試合前にはグラウンドを乾かすためガソリンが燃やされたという。


記念すべき初試合に出場した選手は次のとおりである。

【金鯱】(中)島秀之助、(左)木下博喜、(二)江口行雄、(補)広田修三、(三)黒田健吾、(右)三上良夫、(一)安永正四郎、(遊)濃人渉、(投)スリム平川(平川喜代美)、(投)内藤幸三/(総監督)岡田源三郎、(監督)二出川延明

【巨人】(二)津田四郎、(遊)筒井修、(一)永沢富士雄、(中)中島治康、(右・投)畑福俊英、(左)山本栄一郎、(三)水原茂、(捕)内堀保、(捕)中山武、(投)青柴憲一、(投)沢村栄治、(右)林清一/(総監督)市岡忠男、(監督)浅沼誉夫

まず目を惹くのはやはり当時の巨人のエースで、草創期の日本プロ野球を代表する投手であった沢村栄治だろう。この2年前、1934年に来日したアメリカ選抜チームと全日本チームによる第9戦(静岡・草薙球場)で、沢村は四番のルー・ゲーリックにホームランを打たれて惜敗したとはいえ、ベーブ・ルースら大打者を相手に9奪三振と好投している。巨人はこのときの全日本チームのメンバーを中心に結成された。巨人からは上記以外にも田部武雄やビクトル・スタルヒンといった選手も出場が予定されていたものの、田部は第3戦のみの出場、スタルヒンはけっきょく登板することはなかった。

対する金鯱は急造だった。監督の二出川延明は巨人結成時の選手であったが、前年暮れに金鯱に移籍してきた(これが日本プロ野球初の選手トレードとされる)。投手の内藤幸三は軟式野球で2年連続して全国制覇を実現した剛腕で、金鯱が三顧の礼をもって迎え入れた。主将を務めた黒田健吾は劇団の新国劇の野球チームをふりだしに、当時の植民地である朝鮮、台湾の実業団で活躍した変わり種だ。また濃人渉とスリム平川はいずれもハワイに渡った日系移民の子供である。

金鯱が巨人の相手に選ばれたのは、他球団よりチーム結成が早く、相当量の練習を積んでいたからだという(大和球士『野球五十年』時事通信社)。とはいえ、前年に3カ月半におよぶアメリカ遠征で109試合をこなした巨人とくらべれば、金鯱はあきらかに経験不足であった。当時の新聞によれば、雨や雪のため、練習できたのはわずか15、6日ほどだったらしい(水谷鋼一「金鯱軍・巨人軍 歴史的争覇戦回顧 1」、「名古屋新聞」1936年2月13日付)。

歴史的試合は「平凡裡」に終わった?


記念すべきプレイボールは午後2時35分。本来なら地元の金鯱が後攻になるであろうところを、巨人の壮行試合とあってか先攻に回る。先発投手は金鯱が平川、巨人が青柴だった。


フタを開けてみれば、巨人は思いのほか苦戦する。金鯱は1回表、二死満塁の場面、安永がクリーンヒットを飛ばし、2点先制。次いで2回、金鯱が一死満塁のチャンスを迎えると、巨人は早くも投手を沢村に交替した。しかし沢村は四番の広田から三振を奪ったものの、続く黒田から二塁打を放たれ走者一掃、3点追加を許してしまう。

追う巨人はその後4回に四番・中島の三塁打などで3点を獲り、2点差まで詰め寄る。だが7回表、沢村は平川に二走者を置いてストレートの球をセンター頭上に打たれ、さらに金鯱の2点追加を許す。この失点により8回から巨人の投手は、それまでライトを守っていた畑福に代わった。

しかし畑福の制球は乱れに乱れ、四球を連発、さらにはワイルドピッチもあって3点をとられる。一方、疲れの出て来た金鯱先発の平川に代わって7回から登板した軟式野球出身の内藤は、速いストレートで最終回まで巨人打線を抑えた。結果、試合は10─3で金鯱の大勝で終わる。

後日、「名古屋新聞」紙面には《とに角一回戦は、この二人で巨人の強打陣をわづか三点で喰いとめたんだから大殊勲だ。それにしても巨人軍の投手団はふがいないものがあったネ(中略)ありゃ練習不足だよ》との評が掲載された(前掲、水谷鋼一「金鯱軍・巨人軍 歴史的争覇戦回顧 1」)。これに対し、名古屋軍を擁するライバル紙「新愛知」の初戦に対する評はなかなか辛辣だ。

《グランドの泥ねいとそうして練習不足からして好試合が見られなかったことは幾重にも残念に思うし、然し両軍選手がこの中にあって奮戦されたことに対しては敬意を表しておく。要するに試合は平凡裡に終了したと云い得よう》(「新愛知」1936年2月10日付)

ついでにいえば、11日の決勝戦が終わったあとの同紙の評は、《ともあれ金鯱軍は急造チームとしては見上げた腕前を示したと云ってよいに反し、巨人軍は案外の不振と云ってよいと思ふ、聞くば日本職業野球連盟の先達たる巨人軍は其精神的、及び技術的の両方面とも我国野球界、殊に職業野球界の指導者となり盟主たらん事を希望する》(「新愛知」1936年2月12日付)というふうに締めくくられていた。

10日の第2戦、11日の第3戦で金鯱はそれぞれ3─8、2─4で連敗、三連戦は巨人の勝ち越しに終わったにもかかわらず、「新愛知」は巨人に厳しい注文をつけたのである。

選手たちとチームのその後


2月の巨人・金鯱戦のあと、予定どおり巨人はアメリカに遠征、6月に帰国する。この間、日本プロ野球初のリーグ戦が4月に巨人抜きの6チームで開催されている(阪神甲子園球場)。初の公式戦は、巨人帰国後の7月に東京の早稲田大学球場で開催された連盟結成記念全日本野球選手権大会となった。

沢村栄治は、1936年9月に日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成、さらに翌年の春季シーズンでは初の最高殊勲選手(現・最優秀選手)となるなどめざましい活躍を見せた。しかし1944年12月、台湾沖で戦死する。27歳の若さだった。ほかにも水原茂はシベリア抑留を経験、スタルヒンは「須田博」と改名させられるなど、戦争に翻弄された選手は少なくない。

金鯱軍は1941年1月に翼軍という球団と合併して大洋軍(戦後の大洋ホエールズとは無関係)となったが、戦時中の43年に西日本鉄道に買収され、そのシーズンのうちに解散した。皮肉というべきか、金鯱の母体となった名古屋新聞社は球団を手放した翌42年、ライバルの新愛知と合併、中部日本新聞社(現・中日新聞社)となる。新愛知が結成した名古屋軍は戦後、中日ドラゴンズへと継承された。

金鯱の監督を務めた二出川延明は、鳴海球場での巨人戦のあと審判員に転身する。1959年7月19日の大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)と西鉄(現・埼玉西武)ライオンズの試合で、判定に噛みついた西鉄の三原脩監督に二出川が「俺がルールブックだ」と言い放ったことは語り草だ。巨人・金鯱戦の舞台となった鳴海球場の跡地に自動車学校が開校したのは、ちょうどこの年だった。

草創期のプロ野球に対しては、遊びを商売にするなんてと世間にはまだ偏見も強かった。戦後になっても、高校野球や東京六大学野球に人気は押されがちだった。それが国民的スポーツへと昇格するには、巨人・金鯱戦の初戦から11日後、1936年2月20日に千葉県で生まれたいわゆるひとりの男の子が、1958年に巨人軍に入団するまで待たねばならない。その子供の名は、長嶋茂雄という。
(近藤正高)