『秘密の花園』は、1911年に初版が発行された、フランシス・ホジソン・バーネットによる小説です。それまでにも彼女は『小公子』や『小公女』といった、児童向けの小説を書き多くの読者から支持をされていました。『秘密の花園』は発表当時、それらの小説と比べるとあまり評価はされていなかったそうですが、今となっては『小公子』『小公女』に匹敵する、否、それ以上の人気を誇るバーネットの代表作です。

『秘密の花園』の主人公メリー(メアリー)・レノックスは、『小公子』のセドリックや『小公女』のセーラとは違い、親からの愛情をいっぱいに受けた記憶を持たない子供です。英国領インドのお屋敷で生まれ育った彼女は、両親から構ってもらうこともなく、乳母や召使いたちのもとでわがまま一杯に育ちました。そのため六つになる頃には、まったく可愛げのない、「いばりくさったわがままなむすめ」になってしまいました。

読者が「読むのをやめちゃう」かもしれないくらい、器量の悪い女の子

これは、児童向けの小説に登場する主人公としては、かなり特殊なパターンではないでしょうか。映画監督の宮崎駿は、著書『「本へのとびら」ー岩波少年文庫を語る』(岩波新書)の中で、『秘密の花園』を「とても素敵な小説」と紹介しつつも、 「『秘密の花園』を映画化するのは難しい、「嫌な感じのする女の子」を、本当にいやな感じに描いていいのか?」、「いじ悪そうな顔色の悪い女の子を描いたら、読者は読むのをやめちゃうでしょう」と綴っています。

確かにその通りですよね。『秘密の花園』は、これまで何度か映像化されてきました。例えばフランシス・フォード・コッポラ製作総指揮、アニエスカ・ホランド監督による93年の『秘密の花園』では、メリー役をケイト・メイバリーが演じていましたが、こんなに可愛くては原作に忠実とはいえません。

映像や挿絵にしたら、読者が「読むのをやめちゃう」かもしれないくらい、器量の悪い女の子が主人公の小説。にもかかわらず、今なお不動の人気を誇る小説であり続けているのはなぜでしょうか。それは、メリーの抱える孤独や不安、恐怖にわたしたち読者が共感・共鳴せずにはいられないからなのです。

誰にも気にかけてもらえないわがままむすめ

「いばりくさったわがままむすめ」のメリーですから、彼女の暮らす地域一帯にコレラが蔓延し両親が死亡したときも、誰一人として気にかけてくれる人はいませんでした。乳母も死に、召使は命からがら逃げ出す中、一人屋敷に取り残されたメリーは、父の同僚に助け出されるまでそこで数日間を過ごします。たった一匹のヘビとともに。一体、どれほどの孤独と不安、恐怖を味わったことでしょう。その後、イギリスのヨークシャーに住む血の繋がらない叔父(メリーの父の姉の夫)、クレーブンのもとに引き取られることになるのですが、この叔父も10年前に亡くした妻のことが忘れられず、ほとんど家に帰ってきません。メリーの相手をするのは、召使のマーサとその弟ディッコン(ディーコン)、そして庭師のベン・ウェザースタフといった人たちです。

父なき物語が明らかにする女子の魅力

このように、「父=監督責任のある男」を不在とする設定は、女の子をいきいきと描くために必要な装置であると、児童文学作家ひこ・田中が著書『大人のための児童文学講座』で指摘しています。確かに、同じバーネット作の『小公女』で父が死去するのも、ルイーザ・メイ・オルコット作『若草物語』の父親が従軍牧師で不在なのも、男の目があるといきいきとした女の子が描けなかった時代ならではの“工夫”だと思って読み返してみると、また違った気づきがあるかもしれません。

インドでは、腫れ物に触るような扱いをされ、乳母であれ召使であれ言いなりにさせてきたメリーですが、マーサやディッコンにはそれがほとんど通じません。ここでメリーは初めて、自分以外の「他者」の存在を知ります。それはすなわち、自分自身と向き合うことでもあるのです。

「きっと(ディッコンはわたしを)きらいよ。だれもあたしのこと好きじゃないもの」とそっけなく、冷たく言い放つメリーに対し、召使マーサはこうたずねます。自分のことはどう思うか、好きなのか?と。

「ちっとも好きじゃないわーーほんというとね」(中略)「でも自分が好きかどうか、なんてあたし考えたこともなかったわ」

自分を愛せないメリー

親から充分に愛情を受け取らずに育ったメリーは、自分自身の愛し方もわかりません。まず自分を愛せなければ、「他者」を愛することもできない。もちろん、「他者」から愛情を受けることも難しいでしょう。時間をかけてでも、自分自身を好きになることでしか、今のメリーを救う方法はないのです。このあと彼女は、屋敷の中に隠された「庭園」を発見し、荒れ果てたその場所を蘇らせるため、マーサとディッコンとともに時間をかけて手入れしていくのですが、言うまでもなくこの庭園はメリーの「心」を象徴するものであり、土を掘り、雑草を抜き、わずかに芽が出ている場所をきれいにしてあげることで、彼女の心も次第に解きほぐされていくのです。

実はこの庭園で、クレーブン叔父は妻を亡くしたのでした。その辛い過去を思い出したくなくて、長らく封印していた場所なのです。そのクレーブンに内緒で、毎日のように庭園を手入れしていたメリーは、夜中になると屋敷のどこからか泣き声を耳にするようになります。この物語のもう一人の重要人物、コリンです。彼はクレーブン叔父の息子で、病弱のためベッドから出られない。もうすぐ自分は死ぬのだと思い込んでいます。不安のあまり、たびたび癇癪をおこすコリン。クレーブン叔父が屋敷に寄り付かなくなったのは、妻の死と庭園、そして息子コリンに向き合いたくなかったからでした。コリンもまた、親の愛情を受けずに育ってきたのです。

2人の交流は、自問自答のよう

庭園の手入れを通して少しずつ自分を好きになり、周囲の人とも心を通わせるようになったメリーにとって、コリンはまさに自分の分身。彼の孤独を理解し、救い出せるのはメリーしかいません。2人が激しくやり合う場面は、梨木香歩が『「秘密の楽園」ノート』(岩波ブックレット)で指摘しているように、「深い孤独の中で、一人の人間が自問自答しているよう」です。

「何だい、わがまま者!」コリンは叫びました。
「じゃあ、あんたは何なのよ? 自分がわがままなもんだからそんなこというんじゃないのさ。自分の思いどおりにならない人はみんなわがままだっていうんだわ。あんたはわたしよりずっとわがままよ。あんたみたいなわがままな子なんて、あたし見たことないわよ」(中略)

「人が気の毒がると思ってそう口先で(「死ぬ」なんて)いってるだけじゃないのよ。そういって自慢してるんでしょ。だれがそんなこと信じるもんですか! あんたがもっといい子だったらほんとかもしれないけどねーーあんたってほんとうにいやらしいんだもの」
ーー『秘密の花園』(福音館文庫)

 これまで「死」を持ち出せば誰もが同情し、自分の思い通りに仕向けることができたコリンを、メリーは容赦なく責め立てます。まさしく、魂と魂のぶつかり合い。
 コリンの看護婦がメリーに言います。

「あんなわがままな坊やにはね、だれかがまっこうからわたりあうのがいいのよ。それもおんなじくらいわがままな人がね。ああいうだだっこの病人には願ってもないお薬だわ」「あの坊ちゃんにも、けんか相手になる妹でもいればね、命も助かるかも」

花園の魔法、そしてメリーが物語から去っていく

やがてお互いを信用し合うようになった2人。コリンはメリーに「秘密の楽園」に案内され、心身とも元気を取り戻していくのです。体重も増え、車椅子なしでも歩けるようになりました(この場面は、あの有名なハイジとクララの名場面を思い出します)。もちろんメリーも、「いばりくさったわがままなむすめ」だったころの面影など、微塵もありません。

クレーブン叔父がみると、その女の子はとても楽しげに顔を輝かせていたので器量が悪いなどとはいえないほどでした。
ーー『秘密の花園』(福音館文庫)

「ふとって、ひねくれたところが消えたら、そりゃまあ、かわいくなりましたわ。髪もふえてつやつたしてきましたし、顔色もすっかりよくなって。前には陰気で、いじの悪い子でしたがね、今じゃコリン坊ちゃんといっしょに、まあ気ちがいみたいにげらげら笑うんですよ。あのふたりがふとってきたのはそのせいじゃありませんか」
ーー『秘密の花園』(福音館文庫)

春は「再生」の季節。庭園の植物たちが一斉に芽吹き、葉を茂らせ花を咲かせる場面の描写はみずみずしく、何度読んでもため息がでます。この、湧き上がる生命の力を『秘密の花園』では「魔法(術)」と呼んでいますが、どんな立派な植物も、最初は小さな一粒の種だったことを考えると、私たちの中にも生命の力=魔法は宿っていて、それはときに打ち砕かれることがあったとしても、やがては再び芽吹く瞬間を待っているのです。

「秘密の花園」のお話は、元気いっぱいのコリンをクレーブンが強く抱きしめ、父と子の絆を取り戻すところで終わります。終盤から徐々にメリーの存在感が薄れていき、気がつけばコリンとクレーブンの物語にすり替わっているような、不思議な結末を迎えます。これついては後年、様々な解釈がなされていますが、メリーの分身でもあるコリンが「再生」したところで、メリーの(物語上の)役目は終わったということなのでしょう。今度はコリンがクレーブンを庭園へと案内し、彼の「失われた10年間」を取り戻す手助けをする番なのです。

(黒田隆憲)