先の全豪オープン4回戦で世界4位のスタン・ワウリンカ(スイス)を破り、準決勝では世界2位のアンディ・マリー(イギリス)をも瀬戸際まで追い詰める大接戦。グランドスラム・ベスト4という結果以上に、長身のカナディアンの破壊力に満ちたプレーは、メルボルンの地に強烈なインパクトを刻み込んだ。

 196センチの長身から打ち込む、時速240キロを計測する超高速サーブ。素早くネットに駆け寄り、強烈に叩き込むボレー。長い腕をムチのようにしならせ、コートに突き刺す強打。そして、頂点を取ることへの覚悟やあくなき向上心と、それが可能であると確信しているかのような自信ぶり......。長きにわたりベテラン勢が支配するその閉塞感に穴を開ける存在として、錦織圭と並んで期待を集めているのが、昨年末に25歳を迎えたばかりのミロシュ・ラオニッチである。

 世界中のどこでプレーしてもカナダ国旗で迎えられるラオニッチだが、彼が生まれたのは1990年、情勢不安に揺れる旧ユーゴスラビアだ。一家が新天地に移住したのは祖国解体の翌年で、ラオニッチが3歳のとき。父親は、原子力の研究に携わる科学者。母親も同じ分野の研究者で、母方の叔父は後のモンテネグロ副首相という、エリート家系の出自である。

 実際にラオニッチ自身も、テニスと同等に学問にも情熱を傾け、16〜17歳のころまでは大学進学か、テニスの道かで迷ったという。しかし、「大学はいつでも行ける。今しかできないことを、後悔しないよう選んだほうがよい」との両親の言葉にも背中を押され、17歳のときにプロへと転向。すでに高校での学習過程は、飛び級で修了しているとのことだ。

 長身のビッグサーバーが世界にその名を轟(とどろ)かせたきっかけは、日本にあると言えるかもしれない。2010年のジャパンオープン――。予選を突破したラオニッチは2回戦で、時の世界1位のラファエル・ナダル(スペイン)と対戦。ストレートで敗れはしたが、ブレークチャンスの数ではナダルを上回るなど、スコア以上に世界1位を苦しめた。

 日本での躍動がフロックではないことを、翌年、彼はすぐに証明する。2011年の全豪オープンで予選を突破すると、本戦でも白星をふたつ重ね、カナダ人として10年ぶりにグランドスラム3回戦に進出。そのわずか2週間後には、米国サンノゼ大会でひとつもセットを落とすことなく、ATPツアー初優勝の快挙を成し遂げた。

 さらにその2週間後にも、ワイルドカード(大会主催者推薦)を得て出場したメンフィス大会で準優勝。年始には150位台だった世界ランキングを、一挙に37位までジャンプアップさせた。

「カナダ人選手として○年ぶり」
「カナダ人として史上初」

 以降は彼が活躍するたび、そのような修飾の言葉が付随するようになる。デビスカップ(国別対抗戦)でも常に、エースとしてのプレッシャーを背負ってきた。それでもラオニッチ本人は、そのような役割に自覚的であり、大役を担うことに迷いを見せない。2年前、デビスカップのために来日したラオニッチは、カナダテニス急成長の理由を問われると、「良い質問だ」と言わんばかりの表情で、よどみなく語り始めた。

 新しいカナダテニス協会の会長が、優れた経営理念や組織運営の手法を導入したこと。フランステニス協会(FFT)から引き抜いた人材を強化部門のトップに据え、世界でもっとも優れた育成プログラムを持つと言われるFFTのノウハウを取り入れたこと......等々。

 20歳そこそこの青年とは思えぬ確信に満ちた語り口は、副首相の叔父や、大学教授の父親ゆずりだろうか。知的で落ち着き払ったその姿はコート上でも同様で、冷静に勝利への道筋やロジックを探すことができるのも、どこか超然とした雰囲気の漂うこの若者の強みだ。

 確固たる自分を持つ彼は、ファッションや身につける物にも、独特のこだわりを見せる。若いころは柔らかいクリクリのくせ毛を無造作に揺らしていたが、最近ではポマードで後ろになでつけたような、クラシカルなヘアスタイルが定番だ。

 さらには、長い右腕全体を覆うサポーターも、2年ほど前から彼のトレードマークになっている。もともとは、マイアミの激しい日差しから腕を守るためであったが、その大会で好調だったために、"ゲン担ぎ"の一部になった。それ以降は、まるで彼の強い信念を象徴するかのように、右腕から異彩な輝きを放っている。

 スリーブに覆われた長い腕をムチのようにしならせて、196センチの長身からラオニッチがボールを打ち下ろす。そのたび、テニス界を支配する厚き壁にくさびが打ち込まれ、新時代の扉が開かれようとしている――。

スポルティーバ●文 text by Sportiva