高座シーンをアニメーションで描く凄み「昭和元禄落語心中」

写真拡大

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。今回はTVアニメ版が放送されている『昭和元禄落語心中』について語り合います。

そこに人がいるわけではないアニメで再現



飯田 雲田はるこ『昭和元禄落語心中』は、刑務所帰りの元ヤクザの与太郎が、昭和最後の大名人である落語家・八雲に押しかけて弟子入り。そこには八雲のライバル助六の娘・小夏がいた……てな導入なんですが、実質主人公は師匠の八雲のほうですね。師匠の回想が長い長い。

藤田 多少ネタバレしてしまいますが、師匠である八雲と、ライバルの助六の過去に、話が飛ぶんですよね。

飯田 タイトルが「昭和元禄」(ほぼ昭和40年代)の心中の話なので、そりゃそうなんだけども。現代に時代が近い与太郎の話よりも、昭和の名人である八雲のほうがメイン。

藤田 ぼくは2016年1月から放映されているTVアニメ版しか観ていないし、落語についての知識は皆無に近いのですが、非常に面白く観ています。まず、舞台の緊張感が尋常ではない。うまい噺と下手な噺を演技で分ける声優さんたちの力量も凄いし、絵のつなぎ方などの視覚的な表現も野心的。落語の「中」で喋っている「人物」を描き分けるときに、同じ方向からのカメラで、(喋っている)「キャラ」の位置が移動する、とか、なかなかやらない繋ぎに驚きました。
 録音とかミキシングとかのレベルでも、色々と工夫していますよね、多分。声が空間に響くだけではなくて、左右に音自体を振ったりとかしていなかったかな、噺のシーンでは。そういう工夫で、落語の舞台をかなり長く「アニメで描く」っていう難易度の高い課題が成功していた。それに、本当にびっくりした

飯田 もちろんプロと比較したらしょせん素人落語という意見はもっともですが、声優さんがやるとまた別の味がある。

藤田 本物の落語は、熟練の喋り方であり、そこにいる人がちゃんと動くことによって「芸」になっていたわけではないですか。その「凄味」をアニメの中で再現できないと、アニメの説得力はなくなる。しかし、実際にそこに人がいるわけではないアニメで、人工的に再現出来てしまっている。そこが、驚いた。

飯田 2015年末に放映された立川談春『赤めだか』のTVドラマ版では高座のシーンはほぼやらなかったことを思うと、一層『落語心中』のチャレンジっぷりが際だつ。

藤田 舞台に上がって緊張していたり、観客があくびしていたり、滑っているのを観ているとき、ぼくも緊張して手に汗握ったw 舞台の「外」に物語を設定したりすることで、なんとか舞台を見れるようにするという工夫も重要ですね。
 八雲の初舞台で、全然お客さんが笑わないで、焦ってきたときに、サスペンス映画みたいなピアノの音が流れてきたときは、ちょっと笑ってしまいましたがw 滑っているときのいやーな感じが、実に胸に刺さる感じで表現されていましたね。

飯田 物語としては高座で「すべった」とか「うまくいった」という記号さえ描ければ成立はするので、あそこまで高座のシーンを長々とガチでやらなくてもよかったのに、あえて挑んでいて、アニメーションとして成功している。
 ちなみに『オトメディア』のインタビューで八雲役の石田彰さんがオススメの噺家を訊かれて「立川談志」「立川志の輔」「立川談春」と言っていて立川流推しっぷりがすごかったw 八雲はキャラ的には立川流然としてませんが。

藤田 NHKのBSでやっていた立川談志さんのドキュメンタリーを観ましたけど、家とかボロボロで、なんか腐った肉のようなものを食べていましたけどねw 八雲さんみたいなあんな高雅な感じではなかった。ぼくは無頼な感じが好きなので、むしろその談志さんはカッコイイと思ったけど。

飯田 家元はもらった食べ物はもらった順に食べる流儀だから、食うときには肉腐りかけてることだってあるの!

イケメンすぎる落語界でいいのか


飯田 しかもこれは原作もそうだけど、イケメンの友情や師弟愛の話というそっち方面の魅力もある。人間の業が渦巻く落語界は、その業の深さゆえに女性が描くマンガの世界にフィットするんだな、この切り取り方うまいなあと。雲田さんはもともとBLで有名な作家だし。

藤田 そうそう、イケメンすぎませんか?w そういう需要を狙っているのはわかりますが。

飯田 春風亭一之輔みたいにイケメンの噺家もいますけどね。後年の『笑点』では「馬面」なんてネタにされていた先代・三遊亭圓楽だって若かりし日には「星の王子様」って言われていたプレイボーイだった。立川流も、そのむかし志らく・談春で立川ボーイズというのを組んで女子にわーきゃーされてた時期だってあるんだよ、一応w

藤田 真面目に言うと、無頼派っぽさがなくなっていたりするってのと、(昭和だけど)大正ロマンみたいな美術になっているのが、本作の特徴でしょうか。で、男で踊りの世界から抜けた八雲と、女だから噺家になれない小夏という、ジェンダーの問題も扱っていますよね。

飯田 最近では「女だから噺家になれない」なんてことは全然ないんだけどね。アニメに出演している立川こはるがそもそもそうだし。

藤田 作中の時間では、なれないのでしょう。回想に入る前の「現代」パートも、平成ではないですよね? 建築その他から判断するに。刑務所から出てきた時点で昭和50年ごろでしたっけ。あの「昭和」の再現も面白かったですが。

飯田 おとなしい秀才タイプと荒っぽい男がひとりの女と芸事をめぐって云々という人物の配置とか時代の切り取り方は『坂道のアポロン』を思い出した。あっちは60年代でジャズ。こっちは落語。
 落語の世界は、独特のしきたりがいっぱいあって人間関係も複雑なコミュニティだから物語の材料は尽きない。もちろん、ちゃんと描くのはおそろしく大変だけど。

藤田 古典芸能の世界は、関係性消費の宝庫かもしれませんね。現実でも、歌舞伎の役者さんとか、そういう注目・消費のされ方をされているように思う。それは、ぼくは、想像して味わうしかないのだけれど、ある種の強制的な力関係の上下が、「快楽」にもつながっているはず。でも、ぼくは「快楽」より先に、「うわぁ…… メンドクセーこの師匠」って、自分がその状況にいたらと想像して「いやだなぁ」とか思っちゃう。

飯田 尾瀬あきらさんの傑作落語マンガ『どうらく息子』のほうがよほどめんどくさい師弟関係が描かれてるよw 落語は、客商売であることと文化・伝統であることとのバランスのなかで続いていくものであり、師弟関係や兄弟関係に愛憎半ばすることが少なくないという意味では、ほかのさまざまなジャンルのものと通ずる問題を抱えている。とても近い人たちと対立したり、道を違えたりする悲哀が生じる。そこには感じることがたくさんある。

藤田 そうかもですね。ぼくから観ると、フィクションで描かれる伝統芸能の世界はパワハラだらけに見えて、いやですが(笑) 与太郎も八雲も、行き場のない人間だから耐えてるし、舞台が現在じゃないからオッケーになっているような感じがするんだけど、フィクションの中でそれを観たいっていう欲望があるんですよね。むしろ、そこがいいんだろう、と、思う。頭で考えれば、理解できる。

パワハラ空間の関係性を消費したい気持ちがわからない?


飯田 望まずして預けられた(半強制的に弟子入りさせられた)八雲はともかく、基本的にはその世界の理不尽さを知ってなお飛び込むのが落語国だからねえ……。
 でも「行き場がないイケメン」ってごはん何倍でもいける設定じゃないすか?

藤田 落語家の志望者は、自分で望んで飛び込んでいるのでいいとして。これを観ている観客は、あの否応ない師弟関係の感じが、むしろいいのかな? 権力と欲望みたいなのが混ざった感じの快があるのかな?(マゾヒスティック、あるいは、サディスティックな?) それか、生きるために止むを得なくそういう状況に耐える(あるいは、耐えさせる?)というのが、「女性」という立場の、(多分、過去の?)生きるために権力関係に耐えなきゃいけない感じと似ているから、共感しやすいのかな?
「ごはん何倍でもいける設定」であろうとは思うんですが、PC(政治的な正しさ)的に問題にされる日も遠くなかろうな、と、最近のSNSの事情を見ていてちょっと気にならなくもなく。

飯田 逆で、現実世界がPC的にクリーンにされてるから、理不尽な権力関係が心おきなく合法的に描ける伝統芸能の世界がおいしいのでは?

藤田 ぼくも、フィクションはそういう現実の代理となる、現実逃避の空間であっていいと思うんですが、最近のPCは、フィクションの中まで狩ろうとしていますよね。登場人物が白人ばっかりじゃダメ、とか。その流れで、フィクションの中でも理不尽な権力関係はダメ、とか、パワハラを描いたらダメ、とかエスカレートする可能性は、論理的には充分ありますよね。SMAPの会見もパワハラだとか騒がれていますが。

飯田 ちょっとその心配はよくわからない。とくに伝統芸能の世界には及ばないと思うけど。新奇なものほど標的にされやすいような印象があります。

藤田 関係性消費は、要するにミクロ・ポリティクスの権力関係や、暴力をも快楽として消費する部分があるわけじゃないですか。それは、完全に「政治的に正しい」ものではありえないですよね。その辺りは自覚しておかないとややこしいことになるし、自覚しておいた方が、むしろ他者の欲望にも寛容になれると思うので、いいと思う。念の為。

飯田 そりゃそうだよ。そもそもそれをめざしてないし。上司部下関係で押し迫って、とか、男の奴隷を買ってみたいなファンタジーものや現代の富豪ものやらのBLもあるのにそういう意味でクリーンなわけないでしょw そういうのは「正しくない」から興奮するんじゃないですかね……。ともあれ、藤田くんがパワハラ的な空間にはフィクションであっても絶大なアレルギー反応を示すということがよくわかりました。

藤田 PCばっかりになると、ごはんが食べれなくなっちゃうよ! って言ってるだけですよ! 意外と、PCの中で、民族、人種、性別などは最近議論されているけど、パワーハラスメントみたいなものが作中に出てくることは問題化されてないので、まぁ、一応問題化されうる、ということだけは指摘しておきます。

「へただけどおもしろいやつ」を演技で再現する声優がすごい


藤田 ところで、声優さんたちの演技は、落語的にいかがですか? 落語ファン的な視点からの見所というか、掘り下げておくべきところも、教えていただければ。

飯田 そういうのは立川志らの師匠とかがやっていらっしゃると思うので僕の仕事ではないですw むしろ声優論というか、演技がすごいと思いますよ。山寺宏一さんや関智一さんは、落語のネタをやりながらフラ(本人のキャラがかもしだす、なんともいえないおかしみ)を演技で表現している。べつに落語がうまくなくてもなんかおかしい人っているわけですけど、それを技術で再現していて、たまげた。

藤田 この場合の「フラ」は、では、作中のキャラと、声優さんの人格と、二重に出ている(演じている?)という感じですか?

飯田 いや、声優本人の要素ではないですね。技術でやってる。アニメ序盤の与太郎の高座の演技なんて「こいつ、落語はうまくないけどおもしろいな」感が出ていたでしょう。

藤田 「疑似フラ」(?)みたいなものですか。それは、アニメならではの技術なのでしょうねぇ。このアニメの「キャラ」のフラを出しつつ、その「キャラ」が舞台で落語を喋ってその中で複数のキャラを演じるわけじゃないですか。

飯田 そう。想像しただけで頭がおかしくなるw

藤田 声優さんファンは、さらにその中に、声優さん本人の何かまで透かし見るのかな? その多重性は凄いですよね。で、アニメはまだ二話だけれど、これから上達の過程も描くわけですよね。すごいなぁ。

飯田 声優さんの演技だけじゃなくて、アニメーションとしての演出全体で凄みや場の空気感を出していかなきゃいけないから、作るのは相当大変だと思いますよ。

藤田 伝統芸能を継承するまた別の道、っていうことで、アンドロイド以外の方法もあるぞ、と示した作品ですね。厳密には、やっぱメディアが違うんで断層がある継承の仕方なんですが、その飛躍(差異)の部分が見所でもあるのかな。

飯田 そうだ! 石黒浩教授に米朝アンドロイドの要領で与太郎のアンドロイドを作ってもらったらおもしろいよね。ヨタロイド。フィギュアっぽい見た目で再現できる造形師さえいれば技術的にはつくれるはずなので、2000万円くらいクラウドファンディングなりで集められればおそらく制作可能。

余談:噺家がたくさん出ている『平成狸合戦ぽんぽこ』と比べて観てみよう!


飯田 ちなみに逆に噺家がいっぱい声優として出ているアニメが『平成狸合戦ぽんぽこ』。高畑勲監督が落語好きだったから。

藤田 その場合は、どういう特徴が出ていましたか?

飯田 役者とは口調が違うので、やっぱりテレビアニメの「間」とは変わるよね。高畑監督といえばプレスコ(声を録ってから絵をつくる。ふつう、日本のアニメは絵に合わせて声を録るアフレコで制作されている)だから、よけいに。

藤田 なるほど、比較して見てみると、面白そうですね。

飯田 ちなみに主人公の声優を柳家小三治にしようか古今亭志ん朝にしようか迷ったけれども、小三治師匠にすると「間」があまりにもゆっくりなんで、映画の尺が長くなりそうだ、という判断から志ん朝師匠にお願いしたらしい。プロデューサーの鈴木敏夫さんの本に書いてあった。小三治落語の「間」でつくっていたら、何秒も平気で沈黙が続くシーンが頻発して、事故だと思われた可能性があるw

藤田 それはそれで、見てみたかったですねww