二人目は99年に石崎の後任として山形を率いた植木繁晴監督(現上武大学サッカー部監督)である。

「植木さんはゲームを読むうまさのある人だった。0−2から逆転を狙うような、ギャンブル的な采配を何度も見せて。采配に幅があって、若い俺には格好良く見えたね」

 選手の人心掌握にも長け、コーチの手倉森監督に怒らせておきながら、優しい言葉で場を和ませたり、逆にいきなり怒鳴ってみせたりもする。

「植木さんからは、監督は役者である必要もあるって学んだ」

 三人目は、大分で出会った小林伸二監督(現清水エスパルス監督)だ。

「小林さんは組織的にも、戦術的にもチーム作りに長けた監督だった。ミーティングもシンプルで分かりやすい。あと、個を伸ばすトレーニングも考えていて、ビデオなども作ってあげる。実際に高松(大樹)や松橋(章太)がみるみる成長していって、見ていてとても勉強になった」

 こうした監督評と、手倉森監督がU−23日本代表で見せたチーム作りや采配――限られた時間で逆算したチーム作り、毎試合メンバーを入れ替える大胆な起用、勝負どころを見極めた選手交代、ダジャレを交えたミーティングや個別のコミュニケーションなど――を照らし合わせれば、確かに影響を受けている部分があることは伺える。

 その小林監督とは2002年のシーズンオフ、ロンドンまで足を運び、アーセン・ヴェンゲル監督率いるアーセナルの練習を視察した。また、S級ライセンスを取得した直後の2006年12月にバルセロナを訪れ、フランク・ライカールト監督のトレーニングを勉強したことからも分かるように、手倉森監督はもともと攻撃的なサッカーの信奉者だ。そもそも現役時代はトップ下を主戦場としたゲームメーカーでもあった。

 だが、2008年に監督に就任した仙台は2004年にJ2に降格して以来、4年続けてJ1復帰に失敗していた。2年後、念願のJ1復帰を決めたが、絶対にJ1に上がらなければならない、絶対にJ2へ降格してはならないという戦いの中で手倉森監督はリアリスティックなチーム作り、そして弱者が強者を倒すための戦い方を身につけていった。

 今回のU−23日本代表を構成する選手たちは、2012年U−19アジア選手権、2014年U−19アジア選手権でいずれも準々決勝で敗れ、「アジアで勝てない世代」だった。ただでさえ国際経験が少ない上に、予選方式もこれまでのホーム&アウェイ方式から一発勝負のトーナメント戦へと変更され、困難な戦いが待ち受けていることが予想されていた。

 イラク戦後のミックスゾーンで、指揮官が語る。

「僕自身、難しいプロジェクトに対して選ばれたんだろうなと。難しいからこそやりがいがある。彼らは決してポテンシャルが低いメンバーじゃない。アンダーの代表で悔しい思いをしたからこそ伸びしろがあると信じて、昨日もそういう話をしました。自分が万年J2にいた仙台を5年でACLまで導けたのは、悔しい思いをしている連中に可能性を感じたからだと。選手たちはその気になってやってくれた」

 悔しい思いをしていた選手たちと、そのハートにあの手、この手で火をつけた指揮官。U−23日本代表と現在の日本サッカー界の置かれた状況を考えれば、手倉森監督はこのチームを率いるのに適任だったと言える。

 試合後、五輪への出場権を獲得したことによる達成感と、プレッシャーからの解放感で、多くの選手が涙を見せていた。

「監督は泣けましたか」と訊ねられた手倉森監督は「いや、優勝してから泣こうと思っている。秋葉(忠宏コーチ)が号泣するからもらい泣きしそうになっちゃったけど」と言って笑いを誘った。

 ここまでくれば、指揮官の涙が見たい。決勝の相手は韓国に決まった。今大会で様々なハードルを乗り越えてきたU−23日本代表にとっては、14年のアジア大会準々決勝で敗れたリベンジを果たすための、またとないチャンスとなる。

文=飯尾篤史