28歳で指導者の道を選んだ手倉森監督…ブレない采配に影響を与えた3人の恩師たち

写真拡大

 リオデジャネイロ・オリンピック出場権を懸けた大一番でも、指揮官にブレはなかった。

 リオ五輪アジア最終予選、イラクとの準決勝。手倉森誠監督はイランとの準々決勝で起用しなかったMF南野拓実(ザルツブルク/オーストリア)を先発させ、右足股関節痛から復帰したばかりのFW鈴木武蔵(アルビレックス新潟)、左ふくらはぎ痛で前日練習を回避したMF遠藤航(浦和レッズ)もスタメンに送り込んできた。

 一方で、大島僚太(川崎フロンターレ)の出場が予想されたボランチには、イラン戦で120分プレーした原川力(川崎)をそのまま起用。中でも驚かされたのが、ディフェンスリーダーである岩波拓也(ヴィッセル神戸)をサブに回したことである。

 指揮官が明かす。

「ラインコントロールでの牽制の仕方は(岩波に代わって先発した奈良)竜樹(川崎)が一番メリハリがある。(植田直通/鹿島アントラーズも含めた)3人で高め合っているところだから『ローテーションするぞ』と岩波に伝えた。もちろん決勝は岩波で行くつもりですけど、二つのポジションを3人でローテーションしていて、いい経験にもなるし、いいコンビネーションも作りたい。だから岩波には準決勝は我慢してくれと」

 手倉森監督は常々、「選手を成長させたいから多くの選手を使う」と語り、今大会に向けても「23の武器を選んだ。そのすべてを有効に使いたい」とも語っている。U−23日本代表がこの2年間で2度対戦し、ともに敗れている相手に対しても、その信念を貫いたというわけだ。

 そして久保裕也(ヤング・ボーイズ/スイス)と原川のゴールでイラクを2−1で下し、リオ五輪への出場権を獲得した。苦難の道が予想された最終予選を5連勝で勝ち抜き、6大会連続オリンピック出場へと導いた指揮官の原点は、いったいどこにあるのか――。

 見た目は貫禄たっぷりの手倉森監督だが、実は解説者として現地に来ていた中山雅史さん、アビスパ福岡をJ1復帰に導いた井原正巳監督と同級生。1967年生まれの48歳だ。

 双子の弟、浩さんとともに青森県の五戸高から86年に住友金属(現鹿島)に入社し、93年のJリーグ開幕を鹿島の一員として迎えたが、翌年にNEC山形(現モンテディオ山形)に移籍している。

 その2年後の95年に28歳で現役を退き、指導者に転身すると、2008年にベガルタ仙台で指揮官に就任するまで、7人の監督の下でコーチとして働いている。

 そのすべての監督から多くを学んできたが、とりわけ最初にサポートした3人の監督から受けた影響が大きいという。

 最初の一人は山形、大分トリニータで一緒に働いた石崎信弘監督(現山形監督)だ。かつて手倉森監督はこんなふうに語っていた。

「石さんはとてもまじめ。トレーニングも緻密に計算していて、最初に決めたスケジュールは絶対そのとおりにやり抜く。その計画性や信念に、プロの監督とはこうあるべきなんだと思った」

 実は、28歳の手倉森監督に引退を勧告したのも、この石崎監督だった。将来のJリーグ入りを目指し、翌年から「モンテディオ山形」とチーム名を変えることが決まっていた95年のシーズン中に「コーチにならんか」と声を掛けられたのだ。

「ショックでしたよ、突然だったし。選手兼任でもいいっていう話だったけど、それは断った。中途半端になったら周りに失礼だから。で、選手を続けたいって言ったらどうなるんですかって聞くと、『だったらクビや。ワシ、使わんもん』だって(苦笑)」

 さらに石崎監督の「今辞めれば、同世代の誰よりも経験を積めて、良い指導者になれるぞ」という言葉に背中を押されたという。

「確かにユース代表でチームメイトだった井原やゴン(中山)はクラブでも代表でも第一線で活躍しているけど、俺はJFLでもがいている。この先、選手として陽の目を見ることはもうないだろう。でも、今から指導者の道に進めば、彼らが引退する頃には俺は相当な経験を積んでいるはずだって、自分に言い聞かせて、現役の未練を断ち切ったんだ」