イランに勝ってベスト4入り。残る2試合、連敗しなければリオ五輪出場が決まる日本五輪チーム。可能性が膨らんでいることは喜ばしいことだが、日本サッカーの全体図を俯瞰すると、やっぱり一言いいたくなる。木を見て森を見ずの状態に陥っているのではないかと心配になるのだ。

 3枠を巡るアジア予選を冷や冷や気分で観戦する行為は確かに面白い。映画には「B級ホラー」という言い回しがあるが、それに近しいエンタメ性だ。苦戦をものにすれば、感激は倍増。大喜びしたくなる。

 しかし、この場合の勝利とは何だろうか。五輪でメダルを取ることだろうか。他の競技はメダル獲得が最大の成果だ。五輪こそが最大のビッグイベント。五輪が4年サイクルの中心にある。

 当たり前の話だが、サッカーはそうではない。五輪のメダルに価値はほとんどない。その国のサッカー界の弾みにはなるが、結果ではない。五輪はあくまでも年代別の大会だ。そのうえ、出場チームは16。出場枠は各大陸ほぼ均等だ。その時点で世界一を決める大会でないことは明白。

 オーバーエイジ枠もある。使う国もあれば使わない国もある。そこで銅メダルを獲得し「23歳以下の大会で3位に入った」と胸を張れば、それは無遠慮な思い上がりになる。その3位の意味は不明確。勝ち負けが最大のテーマではないからだ。どの国に、どれほどの選手がいるか、再確認する大会。チーム力より問われているのは個人の力。ありていに言えば、埋もれた選手を探す大会。

 かつては若手選手の品評会と言われた。五輪のスタンドには欧州のスカウトが結集したものだが、情報化社会の発達に伴い、埋もれた選手の数は激減。スカウトは五輪よりU−19、U−17W杯に熱い眼差しを傾ける。五輪のサッカー競技の意味は薄れるばかりだ。チャンピオンシップにはあらず。五輪にあっては異分子。メインストリームではない。サッカーの煽りを受けて、他競技の報道量が減ったとすれば、それは日本のスポーツ界にとって好ましくない現象になる。

 他の競技と同じコンセプトで、五輪サッカーに接するのはナンセンス。サッカーの代表チームと同じコンセプトで見ることもナンセンスなのだ。どうやって向き合えばいいのか。答えは普通だ。A代表に入りそうな選手は誰か、可能性を感じる選手は誰かを探ることだ。

 日本は何とかここまで4連勝できているが、相手と大きな差があったわけではない。これからの2試合もしかり。そこで問われるのがベンチワークだ。監督の豊富で冴えたアイディアと実行力が不可欠になる。もし日本が3位以内に入れば、手倉森監督は称賛されるべき功労者だ。よくやったという話になる。だが、日本サッカー界として欲しているのは手倉森監督の力ではない。A代表で活躍できそうなタレントだ。采配の力で勝ち上がる姿は理想とはいえない。

 イラン戦は、延長前半6分に投入した豊川雄太の交代がズバリ的中。彼の冴えた新鮮なプレイが、土壇場で躍動したことが勝利のカギになった。まず讃えるべきは監督。スタメン出場した11人の中で、光るものを見せた選手はそういない。可能性を感じさせたのはオナイウ阿道のジャンプ力ぐらいなものだ。A代表の経験を持つ遠藤航、浅野拓磨が、そこで代表レベルのプレイを見せたわけでは全くない。将来、日本の中心選手として、あるいは欧州のそれなりのクラブでプレイする姿が想像しにくいプレイだった。

 選手個人個人が、魅力的に見えたのはむしろイラン。A代表レベルの人数比べで、イランは日本を確実に上回っていた。

 豊川の先制ゴールが決まるまで、主導権を握っていたのはイラン。バー直撃シュートを2本浴びるなど、日本は苦戦を強いられていた。