戦後、中央アジアの旧ソ連・ウズベキスタンに連行された日本人抑留者の歴史を伝えるために、私費で日本人抑留者資料館を開設したジャリル・スルタノフ氏がこのほど来日し、日本記者クラブで講演した。写真はウズベキスタン国旗。

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戦後、中央アジアの旧ソ連・ウズベキスタンに連行された日本人抑留者の歴史を伝えるために、私費で日本人抑留者資料館を開設した人がいる。館長のジャリル・スルタノフ氏だ。このほど来日し、1月21日、日本記者クラブで講演した。「日本人抑留者の多くがウズベクの工場、住宅、建物などの建設に従事し、ウズベクに素晴らしいものを残してくれた」「ヒューマニズムにあふれ、年長者を敬うのは、日本人、ウズベク人共通」などと指摘。資料館を過去の歴史だけでなく未来に向けた日本研究センターにしたいと熱弁を振るった。発言要旨は次の通り。

旧ソ連の構成国だったウズベキスタンの首都タシケントに1945年暮れに日本人が抑留された。日本人抑留者の歴史を知ったのは1958年のこと。家族が移住した新しい家の近くには日本人が1947年に設置した高圧線が走っていた。歴史が大好きだったので、調査と研究に夢中になった。

1945年から1949年の間に、日本人抑留者の多くがウズベクの工場、住宅、建物などの建設に従事し、ウズベクに素晴らしいものを残したかが分かった。タシケントでは、オペラハウス、ダム、水力発電所、学校、住宅など日本の人が造ってくれた。

長年の夢だった日本人抑留者資料館を1998年に自宅を改造して開館した。多くのウズベク人、日本人が訪れてくれる。ソ連時代、アーカイブ資料は極秘扱いだったが、ウズベクが独立したため、滞在した日本人のことを調べることができ、詳しいしい知識を得ることができた。

資料館には手作りの揺りかご、絵画、置物などが展示されている。日本人抑留者には大工、指物師、旋盤工、画家、焼き物などの専門家もいて、多くのモノを作ってくれた。揺りかごは、子供が多い家庭にプレゼントされた。

ウズベク人は「慈しみの心を持ちなさい」という国民性なので、抑留者は重労働を課せられなかった。監視されず日本人だけで、日曜日などには自由に街を歩くことができた。抑留者の死亡率は旧ソ連全体では20%だが、ウズベクでは一般市民と同じ2〜3%だった。私は71歳の年金生活者だが、ヒューマニズムにあふれ、年長者を敬うのは、日本人、ウズベク人共通のものだ。

日本人抑留者822人が抑留者資料館近くの日本人墓地で眠っている。このような資料館はタシケントのほか、日本にひとつしかない。資料館では多くの日本人の写真が展示されており、私は写真に向かっていつも呼び掛けている。来館者が書いてくれた訪問ノートには、「情けの島を訪問することができた。」「抑留者となりながらも友情の輪を築いてくれた方々に敬意を抱いた」などの言葉が綴られている

この資料館を、過去の歴史だけでなく、未来に向けての日本研究センターにしたい。シンボルとして日本風の五重塔なども設置し、ウズベク、日本、世界の人たちに継承していきたい。(八牧浩行)