「火花」の流れで来るのか来ないのか。書評家・杉江松恋が第154回芥川賞受賞作を予想する

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いつも木曜日だったのに今回はいきなり火曜日になっていたので、予定を入れちゃってましたよ.。そんなわけでイベントはお休みなのだが、第154回も芥川・直木賞の候補作をすべて読んで行う事前予想企画をやってみました。
ちらは芥川賞。毎回同じで★で表しているのは受賞の本命度ですが、作品の評価とは必ずとも一致しないことをお断りしておきます(5点が最高。☆は0.5点)。


●石田千「家へ」
「群像」2015年7月号
候補になるのは第145回「あめりかむら」第146回「きなりの雲」に続き3回目である。
主人公の新太郎が、とある正月の4日に実家のある町へとやって来る場面で話は始まる。旧友との再会や母親の話題などが出てくるので郷里だとわかるのだが、その雰囲気はどこかよそよそしい。「ただいま」と言って訪れる家の住人の「じいさん」、弟の「光太郎」、近隣の島で暮らす「倫さん」との関係も初めは明らかにされていない。それが整理された形で読者に呈示され、主人公の周囲には少し変わった、入り組んだ家族関係があるのだと判明するのが前半の山場だ。
いや、ストーリーの展開があるのはそこまでで、以降は漁業を主とする地方都市の情景と、東京で美大で彫刻科に通う新太郎の心境とが、曖昧な輪郭の器に盛られて出てくるのみだ。結論を出すのを諦めたかのように投げ出された家族の問題、郷里の停滞した経済、芸術という大海を前にしてぐずぐずしているように見える新太郎の境遇とが、すべて判断留保のような形で流れていき、とある事件によって唐突に幕が下ろされる。
大別すれば新太郎を軸にした心境小説ということになるのだろうか。今回の候補作の中では最長の部類に入るが、その分量を使いこなしているとも思えない。前回候補作となった「きなりの雲」では編物がモラトリアム状態にある主人公にとっての救命胴衣のような働きをしていたのだが、彫刻が新太郎にとってのそれになっているようにも見えない。この小説に関していえば、自分の中に受容器がないのだと感じた。申し訳なく思う。
前回『火花』に授賞されたように、尖鋭的ではない作風のほうに揺り戻しが来ているのかもしれない。だとすれば受賞の可能性はゼロではないが、かなり低いだろう。★☆。

■上田岳弘「異郷の友人」
「新潮」2015年12月号)
第152回の「惑星」に続き2回目の候補作となる。その間に『私の恋人』で第28回三島賞も受賞しており、すでに一定の評価は得ている作家だ。
「惑星」は地上を俯瞰する超越者の視点から叙述が行われる作品だったが、今回の語り手は地上に降りている。山上甲哉と名乗る32歳の男がその人だ。しかし「吾輩は人間である」との語り出しはいささか信用できない。すぐ後で、彼が胎児期、いやそれどころか代々の前世について記憶を有していると告白するからだ。そうした特別な存在ではあるが、山上甲哉は市井の人として平凡な暮らしを送っている。
その「吾輩」が街で見知らぬ中年男から声を掛けられる。なぜか男は「吾輩」が特殊な記憶の持ち主であることを熟知しているようなのだ。実は「吾輩」は、前世を憶えているだけではなく、同じ今を生きている人間の意識・記憶を共有しているようなのである。そのうちの1人が天才ハッカーのJ、もう1人が淡路島を拠点とする新興宗教の教祖Sだ。このJとSがそれぞれの思惑によって動いたことが事態の変化を招き寄せる。
すでに「惑星」の時点で、全世界がネットワークを共有するようになった時代のありようが物語の構図に落とし込まれていた。今回はそれが戯画の域まで高められており、時に笑いを誘う。作中の時間が2011年2月に設定されている。淡路島についての言及があるのはもちろん意図あってのことだ。Sが予言する「大再現」が中盤以降は物語の核となる。モンスターエンジンのコント「神々の遊び」について絶妙なタイミングで言及されるのがミソで、行き止りになった文明の停滞した空気と、それを破壊せんとする衝動を描いた喜劇として楽しんだ。個人的な本命はこれである。★★★★。

■加藤秀行「シェア」
「文学界」2015年10月号
今回唯一の初候補の作家だ。加藤は第120回文学界新人賞でデビューを果たし、本作が受賞後第1作となる。
2020年の東京オリンピック開催に向けて街は変わり始めている。その中で合法非合法の判断などで話題を呼んでいるのが民泊、空き室を一時的なルームシェアのような形で旅行者に貸し出す、新しい形のビジネスだ。本作はその民泊を題材の1つとしている。
主人公の〈私〉はその民泊を当座の生業としている。まだ離婚手続きは完了していないが、1年前に夫とは別れた。その元夫の会社の株を所持しており、結婚指輪代わりに受け取ったはずのそれを売り渡すようにしつこく求められているのだ。民泊ビジネスのパートナーはベトナム人留学生のミーで、日本におけるビジネスチャンスを狙って結構したたかなところのある彼女と、助け合いながら日々を送っている。もちろん法律上はグレーゾーンにある仕事なので、日常は不安定だ。近隣住民からの苦情も気にしなければならない。
元の夫は「コードがあれば何もいらない」とうそぶき、すべてのものは収まるべきところ、すなわち多数の論理の帰結点へと収まると考える人間だ。それに逆らう形でいつ潰されるかわからない仕事にしがみつく主人公は「私とミーは生態系の底にいる小魚みたい」と考える。「できることなら全てから放っておいて欲しい」のだが、生態系の底にいるということは、いつ捕食されるかわからないということでもあるのだ。「私」の心中を知ってか知らずか、ミーは天真爛漫に日本での生活を楽しんでいる。オートバイを無免許運転で飛ばすミーにしがみついての小旅行が示すように、日本的な慣行から自由な彼女は「私」にとっての命綱にもなっているのだ。
これが受賞するとは思えないが、微笑ましい佳品で現代社会のスケッチとしては楽しく読めた。★★☆。

■滝口悠生「死んでいない者」
「文学界」2015年12月号

滝口も2回目の候補である。『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』で候補になった前回から今回までの間に、『愛と人生』で第28回野間文芸新人賞を獲得するなど、周囲から評価されている点も上田岳弘と同じだ。
一つの葬儀の顛末を描いた小説である。故人には五人の子供がいて、彼らにも都合十人の子供、すなわち故人にとっての孫がいる。そのうちの一人、紗重は夫のダニエルとの間に秀斗という子供を授かっている。その三歳の男児を最年少者として三代にわたる縁者が野辺送りのために集まったのである。十数人にも及ぶ登場人物のうち、唯一葬式の主役である死者のみが「故人」と記されるなどして名前が明かされない。「死んでいない者」の話であり、「死者」の話ではないからだ。血縁や婚姻によって形成された人間の集合体から、その発端となった人間だけが消えたのである。
多数の登場人物の中には孫の美之のように、最晩年を故人宅の離れの居住者として過ごした者もいる。彼は中学生のときに不登校になり、妹の知花以外の親族とはほとんど意志疎通せずにすごしてきたのだ。また喪主である春寿の息子・寛は、子供を残して失踪していた。しかし育児放棄された当の本人である浩輝と涼太の2人は、寛にはいい父親だったという感慨しか持っていない。そんな風に、近い関係にありながらもそれぞれに交わらず独立した意思を持つ者たちを作者は俯瞰的に描いていく。過去への遡行も自由に行われるのだ。そうした書きぶりにより、時間を共有するひとびとの群像が浮かび上がってくる。その結節点には死という事実があるのだ。情に流されることのない家族小説として興味深く読んだ。主題と技法の相性もよく、評価する選考委員も出るのではないか。対抗として★★★☆。

■松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」
「文学界」2015年10月号
今回が3度目となる。第141回の『よもぎ学園高等学校蹴球部』、第150回の『LIFE』と、過去2回の候補作はかなりの曲球だった。小説の中に趣向があり、それを読み取ること自体が主題の1つとなっているようなタイプの作品である。今回は題名にもある「ホモサピエンス」と、東洋医学の概念である「経絡」の2つのキーワードがその道標となる。
小説はその経絡についての解説が中途に挟まる形式で進んでいく。大部分の叙述は会話と地の文が交互に出てくる特殊な形式だ。その地の文は、カギカッコ内の話者とは必ずしも同一ではなく、後の時点から発言に解説を加えるような形で叙述されることもある。主たる登場人物のうち、東洋医学の理論に基づいたマッサージを施す「わたし」がその叙述を進行させる担当者だ。そして、「わたし」に施術を受けている「五十山田さん(仮名)」がもう1人の主要人物である。
「ホモサピエンス」が生物学上の学名であるならば、それになる「瞬間」とは人間が文化的存在ではなくなり、一生物へと戻るときのことである。「わたし」も冒頭で「人間自身が知る由もない姿」「人間らしさを脱ぎ捨てた姿」という表現でそのことについて触れている。「五十山田さん」には従軍体験があり、そのときの記憶が身体の施術を通じて「わたし」にも伝わってくるのである。小説の後半には記憶のフラッシュバックめいた断片が散りばめられている。その中では「ホモサピエンスの瞬間」が仄見える。
構造はおもしろいが、やはりそれに依存しすぎている。その点は選考上のマイナスになるだろう。★★。

■本谷有希子「異類婚姻譚」
「群像」2015年11月号)
今回の6人の中ではもっともキャリアが長いが、候補作となったのは4回目と、意外と芥川賞とは縁遠かった。実績だけならば間違いなく本命である。
「異類婚姻譚」とは本来、「猿婿入り」などのように、ヒトならざるものと夫婦になる者についての物語を指す。人里の境界を往復することによって主人公が成長を遂げ、故郷に戻って秩序の回復を果たす、というような主題がそこには存在するのだが、そういった神話・民話の系譜とは直接のつながりを持たない小説である。
本篇の主人公である「私」は、ある日自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気づく。長年連れ添った夫婦は互いに似てくることがあるというが、それどころではなく顔そのものが変化しているのだ。「私」は旦那の目鼻が、顔面を移動しているのを目撃する。弛緩した顔の部品が「私」を模倣することもあれば、逆に「私」が「私」を維持できずにいるときもある。友人のキタヱさんは自分も同じような体験があるといい、「私」にあるアドバイスをする。
「私」を「サンちゃん」と呼ぶ旦那は過去に結婚の失敗経験があり、心置きなく自分をさらけ出せる相手として「私」を選んだ。つまり妻に母を求めたのだ。対する「私」は、旦那が与えた生活の保証を享受するため、進んで専業主婦の座に就いたのである。この2人の共依存関係が、戯画的に描かれる。「料理に目覚める」「他愛もないゲームを四六時中プレイし続ける」といった「ザ・男」的要素が次第に発露していくあたりの、グロテスクな誇張が可笑しい。人間らしさをかなぐり捨てて変貌していく旦那はまるで『千と千尋の神隠し』におけるカオナシのようである。男の滑稽さを誇張して描いたものとして私は楽しく読んだ。過去作のような狂騒的な要素は抑えられており、読者は選ばない印象だ。★★★。
(杉江松恋)

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