イヌイットの食生活も様変わり/shutterstock

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 穀物などの炭水化物(糖質)に偏った食生活は、心筋梗塞、糖尿病、肥満などの生活習慣病、がんなどの難病を人類にもたらした。

 糖質は血糖値を上昇させる。体重64kgの人なら、糖質1gは血糖値を約3mg上昇させる。炊いた白米1杯150g(252kcal)は55.3gの糖質を含むので、血糖値は166mg(3mg×55.3g)上昇する。一方、脂身つきの和牛サーロインステーキを200g(1000kcal)食べても、糖質は1gもないため食後の血糖値は3mg未満。健康な人が白米と焼き肉を食べた後の血糖値も、同様の傾向が見られる。

 病気のリスクを抑えるために、糖質をできるだけ減らして、血糖値を適切にコントロールする――それが糖質制限食の考え方だ。これに近い伝統的な食生活を続けてきた民族がいる。イヌイットだ。

イヌイットがはじめてパンを口にしたのは1世紀前!

 イヌイットとは、4000年前頃からカナダ北部の氷雪地帯を中心とした極北地帯に住むエスキモー系民族である。人口は15万人(2006年)で、日本人と同じモンゴロイドに属する。セイウチやアザラシなどの海生生物の狩猟や漁労で生計を立て、1900年代初頭までは穀物などを一切食べない伝統的な食生活を守っていた。

 だが、1910年代に毛皮交易が始まり、イヌイットはホッキョクギツネなどの毛皮を、小麦粉や砂糖、ビスケット、紅茶、ラードと交換。1920年代頃から穀物を日常的に摂る食習慣が浸透した。1950年代に入ると、カナダ政府の定住化政策や都市化・欧米化の進行によって、急速な社会変動と食生活の激変に晒される。1993年、カナダ・マギル大学の先住民栄養環境研究センターの調査によれば、イヌイットの若者たちは、ハンバーガー、ピザ、ポテトチップス、コーラ、ガム、チョコレートを好み、糖質を大量に含むジャンクフ-ドが摂取カロリーのほとんどを占めるほどになる。

イヌイットの心筋梗塞は約1800人にわずか3人!

 デンマークのオーデンセ大学(現・南デンマーク大学)臨床遺伝学研究所のクロマン博士らは、1950年から1974年までの25年間にわたって、グリーンランドのイヌイットとデンマークの白人の疾病記録を詳細に比較・検討した。

 1980年に報告された研究論文によれば、イヌイットの脂肪の摂取比率は40%と高いものの、糖質の摂取比率は低く、心筋梗塞の発症は稀だった。また、糖尿病をはじめ、血液中の甲状腺ホルモンが増える甲状腺中毒症、気管支喘息、自己免疫疾患の多発性硬化症、尋常性乾癬なども極めて少なかった。一方、脳出血とてんかんは、デンマークの白人より少し多かった。また、がんは、種類は異なるが、合計の発症率は変わらなかった。

 イヌイットに心筋梗塞や糖尿病が少なかった理由は、穀物や野菜をほとんど食べず、生肉や生魚を主食にする糖質制限食を4000年以上も続けてきたからだ。先述したように、カナダのイヌイットは1920年代から小麦で作った無発酵パンを食べていたが、グリーンランドのイヌイットは、調査期間(1950〜1974年)の頃でさえパンや牛肉、豚肉を食べる習慣がなかった。

 先の論文によると、調査期間を通して、グリーンランドのイヌイットの心筋梗塞による死亡者は、約1800人のうちわずか3人。イヌイットと同じ年齢構成を当てはめて割り出したデンマークの白人の心筋梗塞の死亡者は40人にもなり、その差は歴然としていた。

121年間に、穀物の摂取比率は5倍以上に跳ね上がった!

 イヌイットの食生活は目まぐるしく変質した。1855年の調査では、イヌイットの3大栄養素の摂取比率は、タンパク質47.1%、炭水化物7.4%、脂質45.5%。1976年の調査では、タンパク質23%、炭水化物38%、脂質39%。121年間に、穀物などの炭水化物の摂取比率は、およそ5倍以上に跳ね上がっている。

 イギリスの権威ある医学雑誌「ランセット・オンコロジー」(2008年9月号)によれば、このようなイヌイットの伝統的な食生活の崩壊は、イヌイットの疾病構造を大きく変えたと指摘する。

 第1は、EB(エプスタイン・バー)ウイルスがイヌイット社会に持ち込まれたために、EBウイルス感染症による鼻咽頭がん、唾液腺がんが急増した。EBウイルス感染症は、ヘルペスウイルス群に属するDNAウイルスがヒトのBリンパ球(抗体産出細胞)に感染して起きる伝染病。主にキスによって伝播されるため「kissing disease」と呼ばれ、感染者の血液中に大量の白血球(単核球)が見られることから「伝染性単核球症」ともいう。EBウイルス感染症は、ヒトの唾液や咽頭で生息・伝播し、極度の疲労感、発熱、扁桃炎、リンパ節腫脹などを伴う。EBウイルスの特定のDNAは、感染したBリンパ球の細胞分裂周期を変化させるため、鼻咽頭がん、唾液腺がんの発症につながった。

 第2は、欧米人との交流が活発になって半世紀が経過した1950年代から、定住化・都市化・欧米化が追風になり、イヌイットの社会はかつてはまったく存在しなかったタバコ、アルコール、麻薬などを受け入れ、生活習慣が大転換を遂げた。その結果、肺がん、大腸がん、乳がんが急速に増加した。一方、イヌイットは、白人に多い前立腺がん、精巣がん、造血器腫瘍(血液がん)に罹るリスクが低い事実も判明した。イヌイットの若者は、糖質を大量に含むハンバーガーやピザなどを好んで食べたので、ジャンクフードが摂取カロリーの大半を占めるまでになり、がんの罹患率がさらに高まった。

 このように、EBウイルス感染症、喫煙、飲酒、薬物の摂取、小麦などの穀物やジャンクフードを偏食する生活習慣は、わずか半世紀でイヌイットの社会を根底から覆し、食生活も疾病構造も大きく塗り替えてしまった。とりわけ、炭水化物(糖質)の過剰摂取が、さまざまながんを蔓延させたのは明白だ。歴史的にも、経済的にも、イヌイットの社会が受け入れざるを得なかった食文化の大変動。その貴重な教訓を医療に活かさなければならない。
(文=編集部)

参考文献
岸上伸啓「イヌイット『極北の狩猟民』のいま」(中央公論新社、2005年)
岸上伸啓「極北の民カナダ・イヌイット」(弘文堂、1998年)
熊谷朗「EPAの医学」(中山書店、1994年)ほか