12月19日からテアトル新宿と福岡で先行公開、1月9日から全国で公開中の映画「はなちゃんのみそ汁」。2014年夏には24時間テレビで映像化され、賛否両論を呼んだノンフィクション作品が、阿久根知昭さんの監督・脚本で映画化されました。
後編では、「はなちゃんのみそ汁」と代替医療、広末涼子(千恵役)や滝藤賢一(信吾役)が芝居に込めた「裏」の意味、原作とは異なるクライマックスシーンとラストシーンについてうかがいます。

前編:「子どもを自分の手足のように使うの、やめとかんね」映画「はなちゃんのみそ汁」監督に聞くはこちら


「はなちゃんのみそ汁」は代替医療を肯定している?


──前編で伺った「千恵と志保の喧嘩」もそうですが、今回の映画は「はなちゃんのみそ汁」という作品の賛否両論すべてを踏まえたうえで描かれている印象があります。特に気になったのは、民間医療・代替医療の部分。原作では謎の医者ブラックジャックが登場しますが、映画では違う人物が登場し、化学医療も並行して受けています。どちらも否定しないように、肯定しすぎないようにという配慮を感じました。

阿久根 うちはがん家系なんですよ。おやじも、弟も、じいちゃんも、みんないろんな個性のあるがんにかかったので、僕もいずれがんになると思っています。おやじも9年前にがんをやって、小脳に転移して切除できなくなってしまった。でも、がんが消えたんですよ。なんで消えたのかはわからない。抗がん剤もやったし、放射線治療もやったし、人が「がんに効く」と持ってきてくれたものは片っ端から口に入れた。でも全部やったんです。

──「コレがよかった」と確信できるような治療法はなかった。

阿久根 僕は放射線治療かなと思っていますが、でもその治療で唾液腺を焼いてしまって唾液が出なくなっちゃった。唾液が出ないので、お茶を飲まないと物が飲み込めなくなってしまったんですね。治療してすぐのときは味覚や嗅覚の神経もやられていたので、食事をしても味がしない、匂いがしない状態がかなり長いあいだ続いていた。でも生きている。医者は「切りましょう」とずっと言っていたけれど、切っていたら今のおやじはいないなあと思う。

──ああ……私の祖父は喉頭がんでしたが、言われたとおりに切除したら食事ができなくなって、どんどん弱って亡くなってしまいました。

阿久根 医者の言っていることは間違ってはいないけれど「すべて」じゃない。何を信用したらいいのか、患者も家族もわからなくなる。

──何がよかったのかわからないから、映画では全部を肯定的にも否定的にも描かないやり方をとっている。

阿久根 がんの身内が出たら、みんなわからなくて、みんな戸惑うじゃないですか。いろんな人がいろんなことを言ってくる。「あれが効くよ」「これが効くらしい」「あんたそれはダメよ!」まで。全部信用できるわけじゃなくて、やってみないとわからないことも多い。みんながみんな傷だらけになりながら、手探りで模索して苦しむのががんですよ。その記録ですね、これは。


「約束の物語」


──阿久根監督が脚本を担当した「ペコロスの母に会いに行く」についても思ったことですが、阿久根さんの脚本は、クライマックスが原作と異なりますね。「ペコロス」では母・みつえと、幼なじみの関係が深く描かれて、みつえが手紙を受け取るところが映画としての大きなクライマックスになっています。「はなちゃん」も、千恵が病身で出演するクラシックコンサートのシーンが印象的でした。

阿久根 あのシーンはね、安武さんは最初「クラシックじゃなくてロックンロールにしましょうよ!」と反対していたんですよ。なので、安武さんにいったん納得してもらうために、途中の稿はロックンロールに。あとでひっくり返してやろうと思って(笑)。「阿久根さん、最後に忌野清志郎さんが出てきてロックンロールでドラマが終わるんですよ! これでいきましょう。俺達ロックンローラーやないですか!」「いや、アンタ新聞記者やろ」なんてやりながら進んでいました。

──そうだったんですね(笑)。でも最終的にクラシックコンサートで終わったのはとてもきれいでした。

阿久根 安武さんはクラシックにあまり興味がない。でも千恵さんがいちばんやりたかったことはそれですからね。実はこの物語って、約束の物語なんです。

──約束の物語。

阿久根 ママははなちゃんに「みそ汁つくるって、約束やったろ?」と言う。そしてはなちゃんはママに「歌って」と約束する。両方の約束を果たすんですよ。はなが「歌って、ママの歌好きやもん」と言ったときに、千恵はいったん「ママ歌えなくなっとうもん」と断る。でも、みそ汁を娘に作らせている以上は、歌わなきゃいけないんです、この人は。どんどん娘に追い詰められていくんですよ。そして「歌えたら歌う」と約束する。


──その約束が果たされるのがラストのコンサートシーン。「ペコロス」が「みつえという女性の人生の物語」だったように、「はなちゃん」も「千恵という女性の人生の物語」になっていたという感想を抱きました。このように、ノンフィクションを原作としながら、描き方が大きく違うのはなぜですか?

阿久根 それは単純に「僕の作品」だからです。全部僕の物語の、シーンの作り方で編み込んでいます。原作があるものを映像化すると、「原作の世界を壊すな」「原作の方がよかった」と言われることがある。それをひっくり返したいというのは僕がいつも思うことです。「原作もよかったけど、映画も全然違ってよかったね」と言われるためにどうすればいいか。そのためには、僕が作家としてのエネルギーを使わないといけない。

──原作のファンも映画のファンも楽しめる作品を目指している。「ペコロス」も「はなちゃん」もそれに成功していると思います。

阿久根 ありがとうございます。「映画が大好きで原作を読んだけど、原作も全然違って好きになった」と言われるようにも作っているつもりです。

役者陣の「裏の芝居」


──ここまで、「はなちゃん」という作品のさまざまな意図や想いを伺ってきました。このような作品を作り上げる上で、大変だったことはなんですか?

阿久根 大変なのは、脚本を書いた以上に、役者がそれを見せなきゃいけないことですね。見せすぎてもあざといし、隠し続けていても表に出ない。「はなちゃん」は、一見あっさりわかりやすく見える。でも広末涼子も滝藤賢一も、裏の芝居……「一見こういう芝居をやっているけど、実はそうじゃない」ということが多い。

──たとえば、どういうシーンでしょうか。

阿久根 海岸のシーンですね。滝藤さんも印象深いと言っていた。

──千恵がはなを妊娠して、でも産むことを決めると病気が再発する可能性が高く、自分の命とはなの命を天秤にかけなくてはいけない……という葛藤の末のシーンですね。

阿久根 夕日の中で「産むことにした」と広末涼子が語る。そのときの滝藤賢一には台詞がない。ずっと泣いていました、あの男は(笑)!夕日を見て泣いている夫の後ろにまわって、千恵は背中をさする。滝藤賢一には広末涼子がどんな顔をしているのかわからない。彼女は「産むことにした」と言いながらも、不安がいっぱいな顔をしているんですよ。で、夫が振り返ると、にっこり笑う。安心してまた夫が前を向くと、その笑顔のまま視線がすっと落ちて、大きなため息をつく。

──言葉では「産む」と決めても、不安が消えたわけではない。

阿久根 そう。「信ちゃんともう会えなくなってしまうかもしれない」とか「これを機に死んでしまうかもしれない」ということがよぎっている。でも、思いっきり深呼吸したそのあとに、もう一回前を向く。「でもいい。産むことを決めたんだから。信ちゃんも喜んでいるんだから」という顔になる。あのシーンで、広末涼子は全部見せているんです。滝藤賢一がすごいところは、そこで広末涼子がやっていることを全部わかっているところ。滝藤さんに「見てないやろ? 後ろで広末涼子が絶妙なことをやっているよ」と言ったら、「わかっていますよ。だから俺はそれ以上振り返ってない。広末涼子の芝居が続いているから」。

──おお……! 役者さんって、怖いですね……。

阿久根 まあ、実は僕が広末涼子に説明しているのを滝藤賢一が聞いていたらしいんですけどね(笑)。僕は広末涼子に「斜め後ろに立て!」と言った。「本当はつらいけど、つらい顔を見せないように。最後はちゃんと前向きに終わってください、自分の気持ちをやっつけてください」と伝えたら、それだけで広末は悟って、自分の芝居プランを組み立てた。彼女は全部それをやってくれました。


──いちど見ただけでは、それに気づけませんでした。

阿久根 もう一回見るチャンスがあれば、「ああ!」となるんじゃないかな。けっこう、そういうところを多く作っているんですよ。解釈の余地を残そうと思って、あまり説明過多にしないようにいろいろとやっているので。なんの説明もしなくても、気づく人は出てくる。スタッフも「これって、もしかして本当はこういう意味でしょうか」と言い出すようになりました。映画を見ながらだんだん気づいていく。……「ペコロス」もそうできているんですよ。いまだにあの映画を上映すると、お客さんが入る。でもそこで見てくれる人は初見じゃなくて、もう5、6回見ている人たち。

──大好きな人。

阿久根 それだけ見ている人は、気づいていくんですよ。最後、眼鏡橋に立つみつえに対して、ゆういちが「母ちゃん、よかったな」と語りかける。画面にはみつえの横にもう亡くなったお父さんや妹さんやちーちゃんが立っている。でもそこでゆういちが撮った写真に写っているのは、ニコニコ笑っているみつえひとり。ゆういちには彼らが見えているのか? 映画の中ではなんにも説明していません。映画を見終わった人が「あれって本当はどうだったのかな?」と会話をしながら帰っていく。

──映画を見て「楽しかったね」と終わるんじゃなくて、見た人どうしで会話をする……。

阿久根 最初は表に描いてあるものを見て感動する。でもしだいに気づく人が出てくる。関わっているスタッフはみんな仕組みがわかっているので、どういう反応があるのか気になっていますね。「ペコロス」のカメラマンの浜田毅さんが「阿久根は繰り返す。阿久根リフレインと呼ぼう」と言ってくれたんですが(笑)、僕は映像とシーンを繰り返すんですよ。シーンを繰り返すうちに、複雑な部分が麻痺するようなつくりにしている。「はなちゃん」も、複雑なことを簡単に見えるようにしています。

ラストカットは誰の視点?


阿久根 「はなちゃん」の物語は、軽妙に喋る千恵の語りと、写実的に情報を羅列する信吾の語りのテレコで始まって、途中からモノローグがいっさい消えてドラマが始まる。ただ、このシーンが誰の「語り」かは、映像を見ればわかる。千恵が喋っているときは、カメラが揺れる。ハンディなんですよ。さっき話した海岸のシーンも、「産むことにした」というときの画面は揺れている。千恵が語っているシーンなんです。新聞記者の信吾は写実的に物事を捉えているので、カメラは固定で、いっさい揺れない。「はなちゃん」は、そのふたつのカメラが入り混じっている。

──こ、怖い! 全然気づきませんでした!

阿久根 ラストカット、千恵が亡くなったあと、信吾とはながふたりで食卓を囲む。あのシーンのカメラはどうなっているか、気づきましたか? 揺れているんです。

──つまり……。うわー、鳥肌が立ちました。

阿久根 よかった! 千恵の目線なんです。はなと信吾が朝食を食べているのを、千恵が見ているんですよ。見ればそれがわかるようになっている。だから最後に死んだはずの千恵の声で映画が終わる。最初に見た人はきっと誰も気づかないけど、気づいた瞬間「最後、あれは千恵なんだ!」と驚く。そういう仕掛けをしています。記事になったらみんな知ることになるけど(笑)誰がどう気づくか楽しみにしています。僕の映画の作り方は、何度見ても楽しめるように、プレゼントをいっぱい用意しています。


「はなは、はなだよ!」「お前が正しい!」


──あの最後のカットは、違う意味でも印象に残っています。24時間テレビ版の「はなちゃん」でどうしても納得できなかったのは、千恵の席にはなちゃんが座ること。でも映画では、はなははなの席に座ってるので、すごくほっとしたんです。

阿久根 うん。母親の代わりになったという印象を受けますよね。以前、安武さんが「はなが千恵で、千恵がはななんですよ」と言っているインタビューを読んだことがあります。でもはなちゃんがある日それを聞いて「パパ、はなは、はなだよ!」と言った。そこで僕は「はな、お前が正しい!」と思った。はなちゃんの言っていることが正しいから、僕は安武さんの言っていることに拠りたくない。

──そうですね、自分の娘を奥さんの代わりにしたと感じる人も……。

阿久根 きっといますよ。それは絶対ダメ。そして今、はなちゃんが「はな」という個人として、いろんな成長をしながら自分の言葉を持っている娘になっているのに、父親がいつまでも「はなは千恵と一緒なんですよ」とか「千恵を見ているようです」とか、娘としては言われたくないんじゃないかな。安武さんがデリカシーがなくてやや無神経なのは、そういうところなんです。

──映画でも、最初に「やや無神経」と千恵のモノローグがありましたね。

阿久根 「安武さん、そういうところが無神経よ!? 劇中に千恵に言わせますからね」と。脚本を読んで安武さんは「僕、カッコ悪くないですか!?」と言っていたけど、僕が女性だったら、映画の信吾はウソがなくて好きになります。カッコ悪く見えても、千恵が惚れた男性として、安武信吾を描いているつもりです。

(青柳美帆子)