最近の安倍晋三政権は、賃上げなど国民の生活を思いやっているかのような主張をよくしている。しかし、経営コンサルタントの大前研一氏は、賃上げなどと、この人たちは正気なのかとあきれている。なぜ、賃上げは愚の骨頂なのか、大前氏が解説する。

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 時給798円。最低賃金の2015年度の全国加重平均額である(※最高額は東京の907円、最低額は鳥取、高知、宮崎、沖縄の693円)。

 安倍晋三首相はアベノミクス「新・3本の矢」によるGDP(国内総生産)600兆円の達成に向け、この金額を毎年3%程度をメドに引き上げて1000円にすることを目指すと表明した。これを受けて経団連の榊原定征会長は、会員企業に対して今年の春闘で昨年を上回る水準の賃上げを呼びかける方針を示した。官民そろって賃上げの大合唱だが、この人たちは本当に正気なのだろうか?

 1年前に麻生太郎財務相が内部留保を貯め込んでいる企業を「守銭奴」と批判して以来、安倍政権は法人税率を引き下げてやるから内部留保を賃上げや設備投資に回せだの、非正規社員を正社員にしろだのと要求している。しかし、これは経理の「け」の字も知らないド素人の戯言だ。

 彼らは、法人税は企業の税引前利益に対してかかるものであり、そこから法人税などを支払った後の税引後利益(最終利益、当期純利益)が内部留保と配当に回るということを理解していない。損益計算書(PL)を見れば誰でもわかることだが、賃金と設備投資(減価償却)は「経費」として計上されるので、内部留保とは直接関係ないのである。
 
 こんな基本的なことも知らないで内部留保を賃上げや設備投資に回せと要求するのは愚の骨頂であり、それを新聞やテレビが批判していないのも不思議でならない。

 もし内部留保が賃上げや設備投資に回ることを望むなら、法人税率は高くすべきである。そうすれば、経営者は「国に持っていかれるくらいなら賃上げや設備投資に回そう」と考えるからだ。実際、日本企業は法人税率が40%を超えていた時代でも、積極的に設備投資を行なっていた。国内市場に成長機会があって将来に期待が持てたからである。成長機会が見えていながら設備投資をしない会社などあり得ない。

 つまり、いま企業が設備投資をしないのは法人税率が高いからではなく、人口減少や超高齢化、さらに私が何度も指摘している「低欲望社会」の広がりによって今後の国内市場に成長機会が見えず、経営者として投資を正当化する事業計画が書けないからである。

 2014年度の内部留保は約354兆円と過去最高を更新したが、その最大の理由は企業が海外での投資やM&A(企業買収)に備えて内部留保を蓄えざるを得なくなっていることだ。これは結局、国内に成長機会を生み出すことができない政治家と役人の責任である。

 また、政府からの圧力で非正規社員を大量に正社員にしたり、ベア(ベースアップ)の形で一律に賃上げしたりするのは、企業にとっては自殺行為に等しく、株主側から見たら最も危険なことである。なぜなら、正社員を増やして賃金を上げると固定費が膨らんで構造的にフレキシビリティがなくなり、調整メカニズムを失ってしまうからだ。

 最低賃金については、かつての民主党政権も全国平均1000円を目指すという公約を掲げたことがあった。その時、私はすぐ旧知の民主党国会議員に電話をかけて「そんなことをしたら、地方の企業は経営が成り立たず倒産する。失業を増やしたいのか?」と警告した。

 人手が足りない業種や労働者の供給が需要に追いつかない現場などで時給が上がっていくのは当然である。先進国で最低賃金の全国加重平均額が時給798円というのも、実は異常に低い。欧米先進国では時給1200円以上のところが多いのだ。その代わり日本では20年間続いたデフレによってコンビニなどの弁当、惣菜類やファストフードの価格が下がり、地域によっては単身なら時給700円程度でも暮らしていけるようになっている。

 時給は生活費との関数なのである。そういう実態を、安倍政権は全く理解していない。

 もちろん、最低賃金を引き上げるのは良いことだ。しかし、それは政府が“上から目線”で人為的・強制的にやることではない。賃金が安くて人材が集まらない会社はつぶれるだけの話だから、そこは市場原理に任せればよいのである。

※週刊ポスト2016年1月15・22日号