東浩紀は現代文化を語れなくなったのか『ゲンロン』1

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ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。批評誌『ゲンロン』1号について語り合います。

「広義の批評」は批評じゃないのか



藤田 今回は、新しく創刊された批評誌『ゲンロン』1号を扱います。編集長は、批評家の東浩紀さん。

飯田 特集は「現代日本の批評」と小特集「テロの時代の芸術」の二本立てですね。ここでは前者について扱っていきます。

藤田 東さんは、ある時期から独立して出版社を立ち上げ、「批評」の場をご自身で作られて来ようとされてきた方ですね。そして今回、特集が「現代日本の批評」ということで、かつての柄谷行人、浅田彰、蓮實重彦、三浦雅士の行った座談会『近代日本の批評』を意図的に反復されているわけですね。
 賛否はあれど、東浩紀さんは、ゼロ年代の批評を代表するほどの影響力を持った人なわけですが、本書は、彼は、現在は人文知や批評が読まれないような状況にあると認識しながら、日本の批評の歴史を背負おうとしている……という本なわけです。
 隠す必要もないと思うので言いますが、ぼくも飯田さんも、東さんの影響をデビュー当時強く受けていた「東チルドレン」だったわけじゃないですか。じゃあ、そういう人間として、どう読むのか、というのを、今回、直球でやるべきかなと思いました。

飯田 僕が「評論」に興味を持ったのは『新世紀エヴァンゲリオン』の「謎本」からで、東さんの存在はエヴァについて「クイックジャパン」で語っていたので知りました。
ちなみに『近代日本の批評』は学生のときに講談社文芸文庫版で読んでいます。すごくおもしろく読んだ記憶がある(15年くらい再読してないけど)。でも基本的に純文学の話しかしていないんですよね。ミステリやSFが好きな人からすればどうなんだろうと。明治・大正・昭和の批評をすると言っても横田順彌さんの『日本SFこてん古典』やそれを継ぐ長山靖生さんの『日本SF精神史』なんかで扱われている、今の日本のエンタメの源流とも言えるその時代の奇想小説や矢野龍渓の政治小説などの話も(たしか)ほとんどなければ、やはりミステリ・SFの源流であり風俗現象として語る上でも重要な「新青年」すら重要な扱いをされていなかったはずで、片手落ち。

藤田 ぼくは、「ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論」で、「親殺し」を試みているので、今は精神的には「チルドレン」ではないと思います。
 だけれども、例えば、批評というものの成立が、困難だという意識は共有している。それで、東さんはニコ生をやったり、雑誌の創刊を行うわけだけど、ぼくと飯田さんは、こうして、エキサイトレビューで対談をすることで、「批評」をWEB時代における批評をしているわけじゃないですか。

飯田 あー、はい。「エキサイト“レビュー”」だから広義の「批評」だと思ってやってきたけど……w

藤田 でも巻頭言では、「かつて、この国には批評があった。いまは、なくなってしまった」とか書かれている。つまり、これらは批評と認められていない。
 エキレビのような「広義の批評」をどう認めるか。古いタイプの批評では、「w」なんか使わないですよw ぼくらは、ネット環境で読まれうるスタイルを意識的に採用してきたわけじゃないですか。
 これらを「批評」じゃないとする身振りは正しいのかな。どうなんだろうか。

飯田 ここでやっているようなことが東浩紀によって「批評」と認められても認められなくても大半の読者(つまり、ここを読んでいるみなさま!)にはまったく関係ない話で、個人的にもどうでもいいことです。
というか「現代日本の批評」で言われていることは、「エキサイトレビュー」にかぎらず、「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」や「東京ポッド許可局」でやられていることが批評(評論)だと思っているひとたちには届かないと思う。そういう意味では、文化を語ることばは、たくさんあるけれども分断されている。それを横断するとか、メタに立って「こういうものだけが批評です」と言うことは勝手ですが、広範に共有されることはありえない。する必要もない。

軽薄さと雑種性を擁護しながら、そういう本ではない!


飯田 いちおう「現代日本の批評」において「批評」という言葉が指す(またはめざす)ものが何か? ということを要約しておきますね。
ひとつは、「近代日本の批評」って重要な仕事だけどちょっと扱ってる範囲が狭すぎるし、(のちに「批評空間」一派と称されるようになるように)主張が党派的すぎてダメじゃね? 批評ってもっと猥雑でいいじゃん、というのがひとつ。
 もうひとつは、いわゆる「ゼロ年代批評」(サブカル評論)は、日本のオタク文化に偏っていて海外文化への意識が薄いし、芸術と社会・政治の関係を考えてないし、あるいは目の前にあるアニメとかアイドルを語ってるだけで歴史的に広い射程でものを考えていないからダメじゃね? と。

藤田 端的にまとめていただいたことについては――いきなり批判を始めてしまいますが――「現代日本の批評」はそうは言いつつも『批評空間』を軸にした批評マニアのための読み物にしかなっていないと思いますよ。ぼくは非常に面白く読みましたけど。
 この「現代日本の批評」はゼロ年代や現代を扱うらしいので、こういうことを言うと、「ゼロアカ道場」の参加者であるぼくの名前が抹消されたり悪く書かれたりしそうですが、そんなことを気にして媚びを売っても仕方がない、正直にいきます。

飯田 たしかに「もっと軽薄でいい」と言って浅田彰が調子こいてる時期の雑誌とか引っぱって来て言うわりには、基本、出席者のみなさんはとてもまじめですよね。
中森明夫がその昔つくっていたミニコミ「東京おとな倶楽部」では浅田さんをジェットコースターに乗せてインタビューするとか、80年代の「宝島」に載っていた野々村文宏による浅田彰インタビューでは浅田さんは「睡眠時間は最低でも8時間取っている」みたいなクソどうでもいいことを話している。そういう「賢いらしいけどチャラい変人キャラ」は今では古市憲寿あたりの方が体現している。

藤田 雑種的で、軽薄でいいと言っているのに、この本がそうじゃないという問題があると思います。それなら、飯田さんとのこのエキレビの対談のように、『スーパーマリオメーカー』を実際に作ったり『ご注文はうさぎですか?』村上隆展などを節操なく論じたりするほうが、遥かに雑種的で、軽薄です。
 浅田彰が、テレビに出て語ることを「批評」にした、つまり、批評の形式を破壊するという「批評」を行った、そういう精神を称揚するようで、形式がそれを裏切っている。そういう「戦略」なのかもしれませんが、そこに違和感のある雑誌でした。

飯田 1975年から89年の批評を扱うなら、その時期に柄谷行人が占星術にハマっていたこととかネタにすればいいのにw 東さんがこの座談会のなかでも「ニューエイジ重要!」みたいなこと言ってるなおさら、ねえ(そもそも「ニューエイジ」という時代区分自体が占星術から来ている)。ちなみに柄谷さんが占星術にハマっていた同時期に島田荘司先生はデビュー作となる『占星術殺人事件』を書いていたわけですが、島田さんはベビーブーマー(団塊世代)で60年代西海岸文化の洗礼を受けたロック大好き人間であって、そういう人たちにとってはある種の基礎教養(?)だった。

藤田 これは個人的に残念なことなのですが、東浩紀さんが、もはや「現代日本」の文化・芸術を批評の関心の対象にはしていないっぽいことですね。「批評の批評」はするけれども、現代日本文化を論じられていない。

飯田 それは浅田彰が80年代にはスロッビング・グリッスル/サイキックTVのジェネシス・P・オリッジと対談したり、ギリギリ90年代初頭までは岡崎京子のマンガの巻末に登場したりと同時代の文化にめくばせしていたのに対し、それ以降は主にハイカルチャーについて語り、サブカルチャーに関してはおおむね批判的になり、保守化していったのと同じ道を辿っている、とも言える。
 でも年齢とともにそうなるのが普通で、40代に入ったらそうそう若者文化についていけないし、ブームなんて長くて数年しか続かないものだってわかっちゃう。だから古典に回帰する。
ずーっと現役で60代、70代になっても毎クール新作アニメをフォローしつづけている笠井潔や辻真先はすごすぎるw

藤田 そうですね。「同時代」に付き合い続けるのは、簡単なようでいて、むしろ逆で、ずっとやり続けるには、相当な体力と努力が必要なことなんですよね。

飯田 勢い、否定的なことを言ってしまったけども、こうやって議論の軸となる叩き台を提出すること自体が大変なので、ただケチをつけるより、読んだそれぞれが自分の領域で、歴史に対して線を引く仕事をしたほうが生産的ですよね。

藤田 ある意味で、読んだ人間に何か「書きたくさせる」ことが批評の役割であると書かれているので、その点では、この本は成功していると思います。
 「現代批評の使命」として自分がやらなければいけないことは、これらの座談会の目指す方向とは違うところにあるのだなと確認し、やる気がでてきたので、それはこの本から受けた刺激であることは間違いないので。

対談後編につづく