『未成年 (新潮クレスト・ブックス)』イアン マキューアン 新潮社

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 主人公のフィオーナは59歳。同い年の夫がいる裁判官だ。一方のアダムは17歳。エホバの証人の信者にして、ガン患者。本書においてふたりのロマンスが描かれる可能性を早くから検討した人ほど恋愛体質といえるのではないだろうか(私自身はまったく思い至らなかったので、不意打ちを食らったような思いだ)。もしかしたら彼らの間に芽生えた感情は恋愛ではないのかもしれない。だとしても、それに非常に近いものだ。

 物語はまずフィオーナと夫・ジャックの感情のもつれから始まる。冒頭のフィオーナはひどく心を乱されている。それは晴天の霹靂とでも呼ぶべき申し入れだった。すなわち、28歳の若い学者と関係を持つことを認めてほしい、死ぬ前にもう一度エクスタシーを味わいたいからだと。当然フィオーナはジャックの要求を突っぱねる。しかしながらジャックの言い分はこうだ。フィオーナを心から愛している、だがふたりの間で性的接触は久しく行われていない、自分としては死ぬ前にもう一度情熱的な関係を持ちたいだけなのだと(ちなみに、フィオーナが応じてくれれば何の問題もないのだということが婉曲的にほのめかされている)。

 もちろんフィオーナが頭にくるのはごく自然なことだ。重大な仕事を任されているうえに(シャム双生児の正常な頭部を持つ片方の命を救うためにもう片方の赤ん坊を分離することを認める判決を下した彼女は、もし手術を実行しなければふたりとも亡くなっていたのは明らかであるにもかかわらず敬虔なカトリック教徒から痛烈な批判を浴びたばかりであった)、さまざまな会食やコンサートの類いに出席しなければならず、さらにはクリーニングを取りに行ったりもしているのだから。要は、仕事を持つ妻に対して夫の理解が欠如しているということだ。だがしかし。男女間で意見が対立する場合に往々にして男性側の意見に同意しがちな私は、もう少々ジャックに対して譲歩の姿勢をみせてもいいのではという気もしてくる。忙しいとはいえ、夫の提案により心は千々に乱れ持ち帰りの仕事がまったく手につかない状態なのであれば、その時間を夫婦生活に当てることも可能であろう。この場合フィオーナはジャックの強い希望で時間を割くことになるのだから、クリーニングくらい取りに行かせればよいではないか(という方向で、ジャックはまず交渉を試みるべきだったと思わざるを得ない。とどのつまりは彼の話の持って行き方が悪いということに尽きるような)。

 ふたりの話し合いが平行線をたどる中、事務官から当番判事であるフィオーナに1本の電話がかかってくる。それが、フィオーナとアダムの運命につながりが生じた瞬間だった。緊急に輸血する必要のあるガン患者の少年に対し、信仰を理由に(血液製剤を体内に入れるのは信仰に反する行為と見なされているため)本人と両親が輸血治療を拒否している。それに対し、病院側は彼らの意思に反して輸血を行う許可を求めていた。もしアダムが18歳になっていたならば、拒否権があるため本人が望まない治療を行うことは不可能である。だが彼が成人に達するまでにはほんの3か月ほど間があり、ある意味法律が介入するチャンスが生まれたのだった。翌日には輸血を始めないと間に合わないというギリギリのタイミングで、審理が行われることになる。病院側と両親側さらに本人側(ソーシャルワーカーが後見人となっている)の三者の言い分を聞いた後、フィオーナは直接アダムに会って話をするため、判決を下す前にいったん審理を中断させた。裁判官が自分自身で答えを見いだそうとすること、すなわち当事者に個人的に接触して判断材料を得ることは、現代においては極めて異例なケースであるとか。

 ふたりは病院で初めて対面する。アダムは非常に聡明な少年で、自ら進んで信仰のために死ぬ覚悟を固めていた。長時間語り合ったわけではないが印象的な会話と、アダムの心を動かされずにはいられないヴァイオリン演奏とそれに合わせたフィオーナの高らかな歌声。この邂逅はお互いに忘れ得ぬものとなったことだろう。彼の判断能力には問題なしと認めたフィオーナだったが...。

 彼女が判決を言い渡した後にも物語は続いた。何が起きたのかは実際にお読みになって確かめていただければと思う。

 本書もまた、偉大なる"変態作家"(←この称号の由来については、2014年11月第2週の当コーナーバックナンバーをお読みになってみてください)イアン・マキューアンの本領が発揮された一冊といえるだろう(変態色はいくぶん弱いかもしれないかとも思ったが、若い女との性交を容認しろとは十分に不道徳であると思い直した)。辛辣なユーモア、ポーカーフェイスの下に潜む情熱、冷淡さを備えながらぎりぎりのところで手を離さずにいる思いやりのようなもの。そういった要素を含みつつ、物語はあくまでも静かに続いていく。

 皮肉なことにフィオーナとジャックは、アダムという少年の存在によって再び心を通わせるようになったといえるだろう。それが長年生きてきた者の強さだ。無垢な未成年たちから見れば、小ずるくて欺瞞に満ちた大人たち。だが人間はそういった老獪さによって救われることもある。純粋であるがゆえに自らを犠牲にするより、たとえみっともなくても歩みを止めずに生きることに意味があると思いたい。

(松井ゆかり)