箱根駅伝無念の「途中棄権」伝説

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毎年25%を超える視聴率を誇る正月の風物詩、箱根駅伝。
なぜこれほどまでに人を惹き付けるのか!? その理由のひとつに、襷をつなげない無念のドラマ、「途中棄権」を挙げる人もいるのではないだろうか。

歴史をさかのぼれば、箱根駅伝をつくった男にも「途中棄権」を巡る物語があった。その男の名は金栗四三(かねくり・しぞう)。2004年の第80回大会からは、大会最優秀選手に贈られる賞としてこの創設者の名を冠した「金栗四三杯」が創設されている。


箱根駅伝の着想は「アメリカ大陸横断駅伝」


箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)がその歴史の第一歩を踏んだのは1920(大正9)年。その開催に尽力したのが「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三だ。その発端には、金栗自身の手痛い途中棄権があった。

1912(明治45)年、日本が初参加したストックホルム五輪のマラソン代表選手に選出されたのが、当時まだ東京高等師範学校(のちの筑波大学)の学生だった金栗四三。炎天下で行われたレースは途中棄権者が続出。日射病によって死亡者まで出る過酷なレースだった。

金栗もまたこの暑さに苦しめられた。船と電車での長い移動の疲れ、走ったこともない舗装道路、シューズではなく足袋での出場など悪条件が重なり、25km付近で失神。近くの民家で介抱され、目が覚めたときにはレース翌日。こうして、日本人初のオリンピック選手、金栗四三の挑戦は「記録なし」に終わり、失意のまま日本に帰国した。

この苦い経験から、日本人の長距離ランナー育成、という新たな使命を抱いた金栗。オリンピックで戦える選手を数多く育てるためには駅伝競走が最適だと考え、明治大学の沢田英一、東京高等師範学校の同僚・野口源三郎(1924年パリ五輪の十種競技選手)との意見交換から「アメリカ大陸横断駅伝」という途方もないアイデアを思いつく。

出発地点はサンフランシスコ。そこからアリゾナの砂漠を越え、ロッキー山脈を越え、アメリカ中部農村地帯を抜け、ニューヨークへ。これが、金栗らが考えた「アメリカ大陸横断駅伝」のコース概要だ。この駅伝で日本の長距離ランナーを育成するとともに世界を驚かそう! そんな狙いがあったという。

3人はこの構想を実現すべく、報知新聞社にスポンサー就任を打診。その一方で、代表選手を決めるために都内の大学、専門学校を集めた予選会を企画し、ロッキー山脈越えを想定して、「箱根の山越え」を含めた東京〜箱根間のコースが採用された。

こうして1920年2月14日、有楽町の報知新聞社前を出発地点として第一回の箱根駅伝がスタート。その後、「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかったが、「日本の長距離ランナー育成」というコンセプトとともに、今も箱根駅伝の歴史は続いている。

「五輪マラソン史上最も遅い記録」を持つ男


金栗の無念から始まった日本長距離界強化の道。ただ、金栗の「途中棄権」には続きがあった。

金栗自身、途中棄権だと思っていた五輪でのレースは、民家で介抱されたため「行方不明」という扱いになっていた。このことに気づいたスウェーデンのオリンピック委員会は1967年、ストックホルム五輪開催55周年を記念する式典に金栗を招待した。

競技場を訪れた金栗に用意されたのはゴールラインのテープ。このゴールテープを切ると、「金栗選手、ゴールです。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。これで第5回オリンピック大会の全日程を終了します」というアナウンスが流れたという。

この「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」はもちろん公式な記録ではない。だが、「五輪マラソン史上最も遅い記録」としてトリビアネタや雑学の話題としておなじみだ。

金栗四三の珍記録をはじめ、スポーツ界には誰かに語りたくなる珍エピソード、伝説の試合は多い。そんなエピソードの数々を『爆笑!感動!スポーツ伝説超百科』としてまとめた。


たとえば、陸上関連なら
◎旗で拭いた!? トイレをしていたのに優勝したランナー
◎オリンピックの初代マラソン優勝者は羊飼い!?
◎女性アスリートの先駆者が失神しながら根性の銀メダル
◎マラソンの距離は王妃の「わがまま」で決まった!?
◎陸上のトラックが左まわりなのはなぜか?

金栗同様、失踪がらみのエピソードでも
◎突然出場、優勝、失踪。謎の歴代最年少メダリスト
などなど、全140エピソード。

基本的には小学生向けの読みモノとしてイラスト付きで掲載。サクサクっとあっという間に読めるはず。お正月休みの暇つぶしとしても、よろしくどうぞ。
(オグマナオト)