マツコロイドを作った天才研究者・石黒浩が語る「アンドロイドは人間になれるか」

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ロボット研究者・石黒浩さんの著書『アンドロイドは人間になれるか』について、ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんが対談。

マツコロイドを作った石黒浩の頭の中!



藤田 今回は、石黒浩さんが文春新書から出された『アンドロイドは人間になれるか』を扱います。公平を期すために言っておくと、飯田一史さんは本書の構成を担当なさっています。

飯田 クレジットされているので言っていいと思いますが、僕が聞き書きしてまとめ、石黒さんがさらに手を入れたのがこの本ですね。石黒さんは大阪大学の教授でロボットやアンドロイドの研究者(人間そっくりのタイプのロボットが「アンドロイド」で、いかにもメカメカしいやつとかを「ロボット」と思ってもらえばざっくりOK)。TV番組『マツコとマツコ』でおなじみマツコ・デラックスさんのアンドロイド「マツコロイド」の生みの親。つねに全身黒服しか着ないとか、自分そっくりのアンドロイドをつくっちゃったという変人ぶりでも知られています。海外での評価は高く、CNNが選ぶ「世界を変える8人の天才」に選ばれたり、オーストリアで行われている国際的なメディアアートの祭典アルス・エレクトロニカに招かれたり、平田オリザさんのロボット演劇に協力したりと多彩な活躍をされています。

藤田 最初に、わりとゆるい感想を言いますが、面白かったのは、ロボットやテクノロジーそのものだけではなくて、人間観や宗教などについても幅広く思索されている部分でした。石黒さんが、まず「人間の心」というものがよくわからないというところから始まって、「心」とか「人間」の再定義を行いながら、ロボットやアンドロイドの開発に向き合っている自伝的な内容になっているのも、興味深かったです。
 特に重要だと思ったのが「心」は、人間の内部にあるのではなくて、観察する側が「作り出しているだけだ」っていう見方を採用して、ロボット作りにおいて引き算のアプロ―チをしていくところですね。機能を削ぎ落したロボットで、どこまで「人間味」や「心」を感じるのかのチキンレースみたいなことをやっている。

飯田 昨今、人工知能に対する関心が非常に高まっていますが、いま流行っているディープラーニングという手法をどんだけやっても、人工知能が主観的に認識する「心」はできない(はず)。
 石黒さんはそういうアプローチじゃなくて(ディープラーニングを使ったロボットもつくっていますが)、アンドロイドに「心」が"あるように見える"ものができたら、それは「心」って呼んでいいんじゃね? どうやったら心があるように見えるのか、ひとはどんなふるまいをされると「こいつには心がある」と感じてしまうのか? そこに人々が「心」と呼ぶものの正体があるのでは、という発想です。

藤田 「ロボットの研究者」という言葉で抱きやすいイメージで考えてしまう内容と違い、帯にもあるように、「哲学」に近いですね。例えば、人間の定義で、「道具を使える」とか「言語を使える」とかが、西洋の哲学ではあるのですが(ハイデガーとか)、ロボットや人工知能が発達した現在において「人間性」の定義が再編成されているというのは、ぼくのSF論やゾンビ論とも共通する認識です(『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』という現代SF論集で、そのテーマを追求しました)。

飯田 人間には「こうされたら、このひとは優しいんだな」とか「親切心からしてくれているんだな」などと思う行動や表情のパターンがある。それをアンドロイドがマネすると、人間はアンドロイドに勝手に感情をみいだしてしまう。たとえばアンドロイドが口角をあげてこっちを見つめてくるだけで、好意をもっているんじゃないかと錯覚する。
石黒さんはそういうアンドロイドを実際つくったりしているわけですが、これは長谷敏司さんのSF小説『BEATLESS』に出てくる、人間が持っている性質を利用して機械に心があるふうに見えるようにする「アナログハック」と似ている。ぜひSFファンにも読んでみてもらいたいですね。

藤田 そうですね、『BEATLESS』は、石黒さんが想像されている未来像に近い内容じゃないでしょうか。人工知能やロボットが普及した社会をシミュレートした小説として、優れているのだなと再確認しました。
 石黒さんが面白いのは、スマホやパソコンなみに、アンドロイドやロボットが日常に普及した時代の、社会構造や、価値観の変化を、リアルなものとして思索しているところですね。それは、ぼくも、人文系の人間としてアプローチをしていきたいものです。だけれど、この人の場合、実際にロボットを開発し、実用化し……っていう形で、本気で強引に未来を引き寄せてしまう。それが、すごい。

究極の記録媒体としてのアンドロイド


飯田 僕が石黒さんの話をうかがっていて個人的に非常におもしろいな、と思った点は、2015年に亡くなられた、"上方落語中興の祖"三代目桂米朝師匠の高座を完コピできる「米朝アンドロイド」をつくったことから、そういった有名人の人間酷似型アンドロイドがあたりまえのものとして普及していけば、芸能や宗教のありようは変わるだろう、という指摘です。

藤田 ちょうど、並行して、文化庁長官の青柳正規さんの『文化立国論』を読んでいたんですが、こちらは伝統文化を保存・継承するために、若者はオタク文化やデジタルに閉じこもるのをやめて自然に触れよみたいなことが書いてあって、アプローチが逆だと思いましたね。「身につく」タイプの知や技術は、後継者がいないとなくなってしまうわけですが、伝統芸能などを、ロボットに覚えさせたり、「動き」そのものを記録して保存しておくことで、いつか誰かが再生して学習することで保存するというのは、確かに合理的なアプローチだと思います。

飯田 落語や文楽、歌舞伎のような伝統芸能、あるいは歌手やダンサーの全盛期の姿をモーションキャプチャーなどで記録し、完全コピーしたアンドロイドをつくっておけば、身体芸術も永久に再現可能になる。たとえオリジナルの人間が落ちぶれても、死んでも、芸は残る。本人がじじばばになってヨボヨボになっても、アンドロイドは若々しく最盛期の姿でいる。
 消えゆくはずだった身体芸術が永遠に残るということは、単純にその天才が神格化され続けるという話ではない。「すごいって言われていたけど、今見たらそうでもなくね?」みたいなことも起こるし、「やっぱほんとにすごかったんだな。このひとはもう誰も超えられない」というあきらめも起こるかもしれない。

藤田 教祖のアンドロイドができるだろうと予言しているのも面白かったですね。
 石黒さんは、ロボットが、「本」などに替わる、伝達・保存メディアとして普及してしまうレベルまで想定しているんですよね。この発想のスケールがすごい。本に自分の思考を遺して、後世に伝えるのではなくて、思考を持ったアンドロイドを遺しちゃうとか。お墓代わりにアンドロイドと思考を再現した人工知能を置いておいて、子孫が話に来るとか、死生観が確かに変わりそう。

飯田 人間は肉親とは祖父母や曾祖父母くらいまでしか生きているうちは関われないけど、アンドロイドというかたちでずっと残っていたら「俺のご先祖様、こんなんだったんだ」と実感できる。そうしたら逆に「末代まで」云々のイメージも変わる。生命や文化の連続性、歴史への意識は変わりますよね。

藤田 『聖書』とかは、伝達で、つけくわえられたり削られたり、色々と磨かれていったはずなので、「そのまま」ではなくて、複数の手で改定されていく人格の方が、教祖的になったりして…… すると、初音ミクとか、MMDみたいな、複数の手でいじられていくものの方が、より聖典なり教祖的性質を持つような気もしますw
 アイドルも、アンドロイドの方がうまくできるだろうと断言している理屈が笑いそうになった。人間性と、非人間性を同時に要求されるのだから、アンドロイドの方がうまくできるだろうっていう、理屈。それはそうなので、そうだな、って思いましたw

ロボットで労働はどう変わる?


飯田 絶賛すぎるとステマっぽいんで、批判も言ってください!

藤田 うーん、敢えて批判的なことを無理やり言えば、「人工知能やロボットは人間の仕事を奪うのか?」問題については、個人的にはもっと考えたい。『BEATLESS』のように、(広義の)「愛する」ことが人間に残された仕事になるのかもしれない。しかし、石黒さんも書かれているように、今は、ロボットより人間の方が安いから工場で人間を雇う状況で、この格差みたいなものは本当に解消できるのか? という経済の問題は残るわけですよ。

飯田 「機械に仕事が奪われるのこわい」問題って「誰でもできる仕事は安い労働力を提供する人間に奪われる」(たとえば、日本の工場じゃなくて海外移転しちゃう)話がスライドしただけじゃね? と思っていて、経済原理からしてしょうがないし、人間同士で労働力を安いほうに移していくより、機械に代わってもらったほうがよくないですか? トラクターに仕事が奪われるから農作業は人力で全部やろう、みたいな人はいないわけで。

藤田 機械ができる仕事はしなくていいなら、そんないいことはないとぼくは思いますw でも、1967年刊行の小松左京『未来の思想』で、機械が仕事をして人間は仕事をしなくてよくなると書かれてましたが、現実は見事にそれを裏切ったからなぁ。現実には、機械ができる仕事をしている人が失業するので色々な問題が起きるわけですよね。……不思議ですが。