作家になったのは永六輔を見返すため? 野坂昭如『マスコミ漂流記』

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今年、創設から80年を迎えた芥川賞と直木賞。7月発表の上半期の芥川賞にはお笑いコンビ・ピースの又吉直樹の『火花』が選ばれ、今年最大のベストセラーとなった。

もっとも芥川賞・直木賞の歴史をひもとけば、芸能・マスコミ関係者の受賞はけっして珍しくはない。芸人で芥川賞を受賞するのは又吉がたしかに初めてかもしれないけれど、直木賞受賞者では、放送作家だった青島幸男や景山民夫がテレビのバラエティ番組で台本を書くだけでなく自らコントを演じて人気を集めたし、同じく放送作家出身の野坂昭如はかつて「早稲田中退・落第」という漫才コンビを野末陳平と組んだことがある。

もっとも、このコンビ、新宿松竹文化演芸場のテストに合格して舞台に立ったはいいものの、漫才を始めた途端に客席は水を打ったように静かになり、ついには野坂が土下座して「お願いです。どうか、笑ってください」と懇願するというさんざんな結果に終わったそうな(大下英治『わが青春の早稲田』)。1960年、野坂昭如が30歳を目前としていたころだった。

ライバル・永六輔に「恋人」をとられる


野坂昭如がマスコミ業界に足を踏み入れたのは1956年、作詞・作曲家の三木鶏郎が主宰する「冗談工房」に入ったときだった。以来、当時開局したばかりだった民放ラジオ、さらにはテレビのため番組台本やCMソングの作詞を手がけ、売れっ子となる。

この「冗談工房」の先輩に3歳下の永六輔がいた。10代のときから放送作家として才能を発揮していた永は、「冗談工房」で23歳にして社長を務めており、野坂は入社当初は彼のマネージャーみたいなことをしていた。


野坂の自伝的エッセイ『マスコミ漂流記』(幻戯書房)には、彼がいかに永に対してコンプレックス、対抗心を抱いていたかが赤裸々に書かれている。野坂に言わせると、永六輔は行く先々で待ち構えていて、こちらを蹴飛ばす「ありがたい存在」であった。かつて野坂と「ハトヤ」をはじめCMソングを一緒に量産した作曲家のいずみたくも、雑誌の世界へとつなげてくれた編集者の中原弓彦(のちの作家・小林信彦)も、いつのまにか永六輔と一緒に仕事するようになっていた。野坂にしてみれば恋人2人をとられたようなもので、野末陳平との漫才コンビ結成も、それでヤケを起こしての行動であったらしい。

しかし漫才は先述のとおりさんざんな結果に終わり、野末と勉強し直そうと本場・大阪に行ったところ、ちょうど自作ミュージカルの公演中だった永が颯爽と劇場前に現れる姿を見て、すっかりやる気を失ってしまう。

このころの野坂が作詞した曲に「おもちゃのチャチャチャ」がある。これはもともと1959年、開局まもないフジテレビのコント番組のために書いたものだ。作詞者にしてみればまったくの使い捨てのつもりだったが、のちに作曲者の越部信義がNHKから童謡の作曲を委嘱されたとき、何曲か書き下ろしたなかにこの旧作をまぎれこませたおかげで陽の目を見る。この歌で野坂は1963年にはレコード大賞童謡賞を受賞するのだが、このとき大賞をとったのは永の作詞した「こんにちは赤ちゃん」(中村八大作曲)だった。

同じ年、野坂は小説家デビューを果たす。その処女作『エロ事師たち』は「小説中央公論」に発表され、のち加筆して1966年に講談社から単行本として刊行された。これは、放送作家時代につきあいのあったブルーフィルム(非正規で流通していたポルノ映画)のバイヤーから聞いた話をもとにしたものだ。

野坂いわく、小説を書き始めたのに、自らを表現したいというような高尚な動機はなく、ただ永たちマスコミの人気者を見返したいという俗っぽい気持ちに支えられていた。幸いにも、永は小説を書くことはなかった。《永の手を染めていない分野で、はじめて勝負ができた》とは当人の弁である(大下、前掲書)。


「油断ならないマスコミ」を漂流し続ける


『エロ事師たち』の単行本は、この小説を原作に今村昌平監督が撮った映画「人類学入門」の公開にあわせて刊行された。三島由紀夫や吉行淳之介など有名作家を招いて出版記念パーティーも盛大に開いている。パーティー会場で野坂は、編集者と吉行がある新人作家の話をしているのを耳にした。その作家の名は五木寛之。ちょうど「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞したばかりだった。五木は翌67年に「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞(1966年下半期)を得る。野坂が「アメリカひじき」と「火垂るの墓」で同賞を獲ったのは、五木に遅れること1年後のことであった。

「油断ならないこのマスコミで」とは、のちに野坂の歌った「男坂・女坂」の一節だが、マスコミの行く先々で油断ならないライバルたちがひしめいていた。直木賞をとってからも、彼はキックボクシングやタレント、歌手などなど次々といろんなことに手を出した。このことについて当人は《八方に手をのばしていなければ、なんとなく安心できないのだ》と『マスコミ漂流記』に書いている。

野坂がこの12月9日に亡くなったあとで、私が一番好きだったのは、作家・野坂昭如よりもむしろ歌手・野坂昭如だったことに気づいた。彼のアルバム「絶唱!野坂昭如 マリリン・モンロー・ノー・リターン」は20代からいまにいたるまで愛聴盤(正確に言えばデータをパソコンに入れているのだが)である。

野坂は1971年にシングル「マリリン・モンロー・ノー・リターン」をリリース、そのB面に収録された「黒の舟唄」はフォーク歌手の長谷川清にカバーされたこともあり、じわじわと人気を集めていった。

後年にいたっても「ザ・平成唱歌集」というアルバムを出し、ゲスト出演した「笑っていいとも!」でその収録曲「チンタマケの唄」の一節を口にしたところ、卑猥な歌詞ととった司会のタモリからさえぎられていたのを思い出す。まあ、チンタマケとは沖縄の言葉で鎮魂歌のことらしいのですが。

日本武道館、東京宝塚劇場、日本劇場、国際劇場と歌手として大舞台も踏んでいる。となれば、いちどでいいから紅白歌合戦でうたう野坂昭如というのを見たかった気もする。美輪明宏が「ヨイトマケの歌」で出たのだから(今年もこの歌で出場する)、野坂が「黒の舟唄」で出場してもおかしくはなかったのではないか。

いや、ファンとして本音をいえば、「マリリン・モンロー・ノー・リターン」で出てほしかった。「この世はもうじきおしまいだ」で始まるあの歌は、大晦日に浮かれる茶の間にきっと警鐘として響いたに違いないから。
(近藤正高)