古代ローマ時代の浴場 tungtopgun / Shutterstock.com

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 1890年、パリの労働者102人を対象にした生活調査では、浴槽を使っている者2人、靴下を替えるときに足を洗う者18人、顔と首は毎週洗うが足は冬に一度だけ、頭は一度も洗わない者58人、一度も体を洗ったことのない者が24人であった。

 少なくとも19世紀前半までのヨーロッパの伝統的社会には、「垢は体を庇護する膜」とする神話ができあがっていた。疫病や瘴気から体を守るものが垢だったのだ。垢=不潔=不衛生=病、除垢=清潔=衛生=健康という考え方は、まだ常識ではなかった。

 そういえば、ローレンス・ライトの著した『風呂トイレ讃歌』(原題"Clean and Decent: The Fascinating History of the Bathroom and the Water-Closet")に、こうある。

 「こと毎日水を浴びるという点では、アメリカ・インディアンのシャイエン族、東アフリカのバガンダ族、南米チャコ平原のチリガノ族などのほうが、ロンドン市民よりずっと進んでいたのだ」

 上下水道の完備した4世紀のローマ時代、浴場はよく発達していた。浴場は社交の場であり、入浴は仲間同士の社会的な義務でもあった。

 しかし、西ローマ帝国が滅びると、ヨーロッパは長い"不潔の時代"へと迷い込んでゆく。俗にいう「ヨーロッパ、洗わずじまいで一千年」である。当時の一般庶民用の公衆浴場は、悪の温床、すなわち売春の巣窟、不道徳性の排撃対象であった。そして、このことが体を洗う習慣の衰退を助長した。

 こうした伝統のため、1883年に「ベルリン衛生博覧会」が開催されたころのドイツには、公衆浴場は住民3万人に1つ。1908年になっても、ロンドンでは住民 2000人に対して公営浴場は1つしかなかったそうだ。

19世紀後半に芽生えた「衛生観念」

 便器の中身を窓下の道路にぶちまけるといった信じられない悪習(悪臭!)がパリの街から姿を消したのは、19世紀も終わりに近づいてからであった。19世紀前半までは、家庭内にトイレがないばかりでなく、屋外にも便所はなかった。

 パリに最初の公衆小便所が誕生したのは1830年。1843年には468基を数えたらしいが、人々はその周囲で放尿していたという。こうした衛生状況の下、1832年、49年、54〜55年、64年と、フランスをコレラが繰り返し襲った。

 パリで家庭ゴミを定期的に回収する条例が施行されたのは、ロベルト・コッホがコレラ菌を発見した翌年、1884年であった。セーヌ県知事ウジェーヌ・ルネ・プベルは、市民に一定のゴミ容器の使用を義務づけた。ゴミ箱がフランス語で「プベル」と称されるのは、この「清掃革命」に由来する。

名都パリもゴミであふれていた

 1872(明治5)年12月16日、岩倉具視をはじめとする明治維新の士からなる岩倉使節団が目にしたパリは、舗装されたシャンゼリゼ通りの両側に聳える白亜の建造物などの「名都の風景」であった。しかし、このころ裏通りはまだゴミであふれていたはずである。事実、1873年と83年には腸チフスが流行している。

 1862年、幕府遣欧使節の一人が「殊にアンゲネーム(快適)なるは厠に御座候」と記したのは、ここパリの水洗便所であった。これはまさに、歴史の皮肉といってよいかもしれない。

 江戸時代に世界に先駆けて上水道(神田上水)を整え、共同浴場をもち、共同便所と屎尿の汲み取り・肥料としての再利用といったシステムを完成させていた江戸の街からの使者が見習おうとしたものは、いったい何だったのか。少なくとも、伝統的に風呂好きの日本人が世界に誇れる衛生観念をもっていたことだけは間違いない。

参考文献:ロジェ=アンリ・ゲラン著(大矢タカヤス訳)『トイレの文化史』(築摩書房)、ローレンス・ライト著(高島兵吾訳)『風呂トイレ讃歌』(晶文社)、蔵持不三也著『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』(朝日選書)、医学のあゆみ178:196-198、1996より転載


堤寛(つつみ・ゆたか)
藤田保健衛生大学医学部第一病理学教授。慶應義塾大学医学部卒、同大学大学院(病理系)修了。東海大学医学部に21年間在籍し、2001年から現職。「患者さんに顔のみえる病理医」をモットーに、病理の立場から積極的に情報を発信。患者会NPO法人ぴあサポートわかば会とともに、がん患者の自立を支援。趣味はオーボエ演奏、日本病理医フィルハーモニー(JPP)団長。著書に『病理医があかす タチのいいがん』(双葉社)、『病院でもらう病気で死ぬな』(角川新書)、『父たちの大東亜戦争』(幻冬舎ルネッサンス)、『完全病理学各論(全12巻)』(学際企画)など。