10月3日、京セラドーム大阪で行なわれた谷佳知(オリックス)の引退試合。球場内には大々的にポスターが貼られ、イニングの間には谷の現役時代を振り返る映像が繰り返し流れた。主役の登場は7回一死一塁。大歓声に迎えられ、谷は代打として打席に入った。

 マウンドにはソフトバンクの急成長右腕・武田翔太。現役最後の打席を味わうという考えは最初からなかった。これまでと同じように、来たボールに対して反応するだけだった。その初球、武田が投じたストレートに体が勝手に反応し、バットを振り抜いた。

「タイミングは合っていなかったし、芯も外れていた。ヒットになるとは思っていなかった」

 執念で打ち返した打球はライトの前で弾み、これが通算1928本目のヒットとなった。8回表にはライトの守備につき、一死になったところで駿太と交代。ベンチに戻り、笑顔でナインとハイタッチを交わし、深々とスタンドへ頭を下げ、19年の現役生活に別れを告げた。

 尽誠学園(香川)から大阪商業大を経て、社会人の三菱自動車岡崎に進んだ谷は、「どうやってヒットを打ち、いかに遠くに飛ばすかを考えて練習していた」の言葉通り、連日の打撃練習で卓越したバットコントロールを身につけた。それがスカウトの目にとまり、96年のドラフトでオリックスから2位指名を受け入団。

 しかし、プロ生活の始まりは順風満帆とは言い難かった。即戦力として入団しただけに、結果を出さなくてはならないという焦りもあった。キャンプでのバットスイング中、左手の中指に突然、これまで感じたことのない痛みが走った。力を入れるだけでも痛むため、バットを握ることもできなくなってしまった。

「バネ指(指の腱の炎症)といわれるやつだった。どうしようかと思った。1年目なのに、もう野球を辞めないといけないのかとも考えた」

 中指が握れないため、親指と人指し指に力が入りづらい。だから、「左手は薬指と小指の2本しか使えなかった」という。ケガの影響もあり開幕一軍は逃したが、それでも練習を休むことはしなかった。

「ケガのことは周囲に言えなかったし、言う必要もないと思っていた。結局、最後まで治ることはなかったね。でも、もしかしたらいい形で力が抜け、バットを振れていたのかもしれない」

 一軍に昇格し、プロ初出場を果たしたのは5月末。谷はそこから秘密を抱えたまま、ヒットを重ねていった。

 07年にオリックスから巨人に移籍し、13年までの7年間で5度のリーグ優勝に貢献した。しかし、年々、出場機会は減っていった。そして楽天の日本一で終わった13年の日本シリーズ第7戦のあと、「来季の契約は結ばない」と通達された。

 巨人時代、もう少し出場機会が増えていれば、2000本安打という大記録を達成していたのかもしれない。しかし、谷は首を横に振った。

 巨人では、子どもの頃から「ファンだった」という原辰徳監督(当時)が現役時代につけていた背番号「8」をもらい、その指揮官のもとで勝負の厳しさを学んだ。

「原さんは野球を知り尽くし、細かい戦術をされていた監督。選手が苦手なことでも必要とあればさせ、確実に勝ちにいく。1点の大事さを教えてもらった」

 オリックス時代はあまりバントをしなかったが、巨人では2番に入ることもあり、バントをするケースもあった。

「(バントは)意外とできていたかもしれない。いま思うと、パ・リーグとセ・リーグの野球が違うのは、そのへんにあったと思う。パ・リーグは豪快に打ちにいく感じがあり、セ・リーグは投手が打席に入るため、代打や代走など、選手全員を使うイメージがある。原監督はそういうことを計算に入れながら起用していたし、名監督だと思います」

 そして谷にはもうひとり、尊敬する名将がいる。オリックス入団時の監督で、2005年に他界された仰木彬氏である。仰木監督の采配には何度も驚かされた。

「基本的にはデータ重視だけど、直感が鋭い。ここでこの選手を出せば活躍するとか、この場面ならこの選手が打つだろうということが、初めからわかっていたような采配をされていた」

 たとえば、選手や選手の妻、子どもの誕生日、さらには結婚記念日や家族が故郷から見に来ている日などを事前に把握していた。そして、その選手を試合で起用する。

「仰木さんはたぶん調べていたんだと思う。『ここでこの選手出す?』というような場面で、起用して、それが当たる。そりゃ選手は頑張るよね。活躍すれば、チームに勢いもつくそのあたりの選手起用がとてもうまかった」

 選手たちも次第に仰木監督の考えが理解できるようになり、準備がしやすくなったという。

 谷はふたりの指揮官の考えを理解しながら、打席に立ち続けた。しかし、年を重ねるにつれ、技術の衰えが見え始め、若手も台頭してきた。12年には2000本安打まで残り100本を切ったが、そこからなかなか減らなかった。当然、試合に出れば打てる自信はあった。

 巨人を自由契約となっても「まだできる自信がある。2000本安打は自分だけのものではない。応援してくれている人たちの思いもある」と移籍先を探し、年俸3000万円(推定)、1年契約で古巣・オリックスからのオファーをありがたく受け入れた。

「僕自身、このチームでまだ優勝がない。優勝する喜びを若い選手に伝え、その結果、2000本安打も達成できればいい」

 そう抱負を語っていた谷だったが、オリックス移籍後も出番は少なく、14年はわずか9試合の出場に終わった。それだけに今年に懸ける思いは強かった。

 今年1月、自主トレのために宮崎にやってきた谷は、宿泊先のホテルの一室で練習道具を並べながら、こうつぶやいた。

「2000本安打は目標だけど、今年アカンかったら(引き際を)考えないといけない」

 悲壮な覚悟で挑んだ今季、6月11日に初めて一軍昇格を果たし、ヒットも放った。このまま出場機会が増えれば、大記録達成の可能性も見えてくる。しかし、谷が取った行動は意外なものだった。

「自分の納得する打撃ができない。このまま一軍にいたらチームに迷惑がかかる」と、昇格まもない6月13日の阪神戦のあと、福良淳一監督代行(現監督)に自ら登録抹消を申し出た。記録達成にこだわるのなら、自ら申し出る必要はなかった。しかし、チームの勝利への思いと自分の打撃ができないプライドが、それを許さなかったのだ。

 この後、再び一軍昇格を果たしたが、8月下旬に引退を決意。亮子夫人に電話で伝えた。

「もちろん、2000本安打は達成したかった。(引退の)決め手になったのは一軍での試合数。大歓声の中で野球をやるのが、なにより気持ちよかった。でも、自分の実力がなくなって......。2年続けてそういう状況だったからね。仮に、あと5年やらせてもらうことができたとしても、体力がついていかないし、チームにも悪い」

 華やかな引退試合を終えた後、谷は福岡県内の仰木氏の墓を訪れ、その日のうちに広島にある同い年で10年にくも膜下出血で急逝した木村拓也さんの墓前にも手を合わせてきた。ともに巨人でプレーし、普段から仲が良かった。いつか一緒に同じユニフォームを着てコーチをすることも夢見ていた。

「タク(木村拓也)が引退するとき、相談された。僕個人としては長くやってほしかったけど、最後は自分自身が決めること。タクからは『長くやってくれよ』と言われたのをよく覚えている。言われた通りできたと思うよ」

 現役に未練がないといえば嘘になる。だが、多くの人に支えられ、心晴れやかにユニフォームを脱ぐことができた。

 引退後は家族と過ごすことに多くの時間を割いている。

「引退会見で『温泉に行きたい』と言ったし、行こうかなと。長野や山梨に行ってきたよ。それに、今まで(家のことは)妻に任せきりだったから、子どもの習いごとの送り迎えをしたりしている。ちょっとは助けになっているのかな。家族と一緒にいる時間が長くなったなという充実感はある」

 最後に、「もし、ひとつだけ願いが叶うとしたら何をしたい」と聞くと、こんな答えが返ってきた。

「今の感覚を持って、高校生のときからプロに挑戦したい。あっ、それにホームランバッターでもいいかな。もっと遠くに打球を飛ばしたい」

 引退しても野球への愛情は止まらない。いつかユニフォームを着て、指導者になるという夢もある。谷佳知の野球という旅は、まだ終わらない。

楢崎豊(報知新聞社)●文 text by Narasaki Yutaka