全日本フィギュアスケート選手権の男子ショートプログラム(SP)で転倒しながらも102・63点を獲得し、首位発進の羽生結弦。男子フリーでもトップに立ち、4連覇を達成した。

 11月末のNHK杯と、その2週間後のグランプリファイナルで、2試合とも完璧な演技をして連続300点超えという偉業を果たした羽生。彼自身、出場する試合はすべてノーミスの演技を目指しており、今回の全日本でも、観ている側もさらなる300点超えを期待していたはずだ。

 だが、フィギュアスケートは微妙な感覚のズレがミスを誘発する競技であり、SP、フリーともノーミスで揃えるのは極めて難しいことだ。だからこそ、スケーターはそのノーミスを目標にしている。そんな競技で、2試合連続でノーミスの演技を揃え、しかも300点超えを連発したことは、奇跡に近いことでもある。

 他の個人競技を見れば、選手が心身ともに完璧な状態にして試合に臨むのは、年に数試合しかない。五輪や世界選手権などの大会に照準を合わせ、そこまでにどう仕上げていくかに心血を注いでいるのだ。

 たとえば、陸上男子100mの世界記録(9秒58)保持者であるウサイン・ボルト(ジャマイカ)でさえ、100mを10秒台で走るレースもある。自身の体の状態やメンタルの高揚感に加え、気象条件も結果に影響する。そんな中では当然、無理をしないで勝利だけを狙っていく試合もある。

 それでも勝ち続けるのが王者なのだが、勝利とともに記録まで狙うには、体だけではなく精神にも大きな負担を強いる。それを続けていれば心も身体も疲弊してしまう。

 羽生のNHK杯とファイナルでの300点超えは、陸上の100mにたとえてみれば、9秒5台の世界記録を連発したようなもの。それが体と心に与えた負荷は、周囲には想像できないほどの大きさだったはずだ。だからこそ、今回の全日本選手権でノーミスが途絶えたのは、彼が心と体をもう一回リセットして次へ進むためにも、必要なことだったといえる。この結果に、観ている側としてホッとする気持ちもあった。

 SP終了後、羽生は「緊張感よりも逆にすごくリラックスして、自分の中ではいい状態だと思っていました」と話していた。

 そして、その理由に「環境要因」を挙げた。周囲にいるのは昔から知っている同世代の選手や先輩、後輩たち。海外の大会とは違い、聞こえてくるのはすべて日本語ばかりでホッとしてしまうのは当然だ。そういう状況では、どう頑張っても「リラックスしてしまう気持ちが先行してしまう」と羽生は言う。

 たしかに、NHK杯も日本開催(長野)ではあったが、羽生自身、スケートカナダでの敗戦の悔しさから、SPはより難度の高いプログラム構成に変更し、それに挑戦することに集中していた。そして、そのSPで106・33点の世界最高得点を出したあとは、自身の中に芽生えた「300点超え」への期待と、のしかかってきた大きなプレッシャーとの戦いに集中するしかなかった。

 その2週間後にバルセロナで行なわれたファイナルは、現時点での世界のトップ6が集結するシビアな大会。戦う相手も得点をつけるジャッジも、NHK杯とは違う。そこではNHK杯の300点台が本物だったことを証明するという戦いが待ち構え、気持ちを切らす余裕はなかった。

 10月下旬のスケートカナダを終えて以来、そんな張りつめた状態で戦い続けてきた羽生が、再び戦いの場を日本へ移した全日本選手権。「これだけ選手層が厚い中での日本一が決まる大会ですから、僕の中では高い位置づけの大会で、重要視している」。羽生はこう言っていたが、今シーズンこれまでが、かつて経験したことがないほど張りつめていたが故に、ここで少し空気が抜けたような精神状態になっていたとしても何ら不思議はない。

 そして、フリー当日の公式練習。羽生は、リンクで村上大介と接触して転倒、周囲をヒヤリとさせた。彼は、ファイナル翌日の公式練習時のように、疲労しきった体を目覚めさせようとするように、無理やりムチを入れてスピードを上げて滑っていた。

「緊張感がありすぎて、周囲への注意力を欠いてしまったのが、接触事故を起こした要因だとも思います。ただぶつかってしまったことは事実なので、そのあとや6分間練習でも、昨シーズンの中国杯のあとのNHK杯のように、周囲を意識しすぎるような感覚に若干陥っていたのではないかという思いもあります」

 通常は自然にできている「適度に周囲も見える中で自分に入り込んでいる状態」ではなく、自分の目の前しか見えないような状態になっていたのかもしれない。

 それでも、フリーではSPで失敗していた冒頭の4回転サルコウをGOE(出来ばえ点)満点の+3という出来で決め、続く4回転トーループも+3の完璧なジャンプで続けて、修正能力の高さを見せつけた。同時に、その演技には、無心に近かった直前の2戦とは違い、自分で無理やりモチベーションを上げようとしていた影響も見えていた。

「今日は足元というより、上半身をすごく意識して使おうとすることができていた」というステップは、自然に湧き出てくる戦いへの思いで攻めている時の「気迫」が少し薄まっているように感じた。そして、後半の4回転トーループで転倒してしまうと、次のトリプルアクセルも転倒。最後は疲れ切ったような状態で演技を終えた。

 それでも、フリーの得点は183・73点で、合計は286・63点を獲得。300点超えは果たせなかったものの、昨シーズンのファイナルの優勝得点に迫るスコアで、全日本4連覇を果たして強さを見せつけた。

「前半のふたつの4回転に関しては、GOEでマックスの加点をもらっていますし、自分の手応えとしてもよかったと思います。ただNHK杯の頃からそうですが、緊張もしていたし、連戦の疲れもあって体が動かなかったりして、しんどいところもありました。その中でも、自分なりに『こういう場合はこうすればいい』と考えてやってきましたが、今日はこの構成をこなせなかったということです。

 終わったあとで、ブライアン(・オーサーコーチ)には、『(ミスが出たのが)今日でよかったじゃないか』と言われましたけど、いちばん大事なのは(2016年3月末の)世界選手権なので、そこへ向けて課題が見つかったのはよかったと思います。自分の演技が終わった瞬間は『下手くそだなー』と思いました。同時に、点数がどうのではなく『また一からやり直せる』といううれしさも感じました」

 羽生は悔しさを大きなバネにして、類まれな集中力の高さで進化しようとするアスリートだ。そして、300点超えという異次元の世界を2大会連続で経験したあとの今回の失敗だからこそ、彼にとって次の飛躍への大きなバネになるだろう。

「本物の王者」とは8割の状態でも勝ち続け、照準を合わせた大会では周囲を驚かせる結果を出す。それができるさらに強いアスリートへと、彼は今、成長を続けている途上にある。

折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi