写真提供:マイナビニュース

写真拡大

●中学時代はむしろ数学が苦手だった
「数学者」と聞くと、オイラーやガウス、ラマヌジャンといった歴史上の天才数学者たちが頭に思い浮かび、「数学者たちの頭の中って、いったいどうなってるんだろう?」と、つい考えてしまう。凸幾何学およびポテンシャル論を専門とする数学者である宮崎大学 教育文化学部(2016年4月から教育学部に改組予定) 数学教育講座の坂田繁洋 講師にお話をうかがい、その実態に迫った。

○「数学者」を志したきっかけ

―「数学者」と聞くと、小さいころからすでに数学がものすごく得意だったのではというイメージがあります。中高時代、数学は好きでしたか?

私はむしろ、中学1〜2年生のころは苦手なほうでした。文章題が解けなかったんです。数学にハマったのは、それまで通っていた塾を変えて、新しい先生に教えてもらうようになってからですね。特に、三平方の定理がおもしろいと感じました。補助線の引き方を1本見つけられると一気に問題が解けるというところが、ある種のゲーム感覚というか。

―大学では「数学科」で学ばれていたそうですが、多くの学科のなかから数学科に進学しようと思った理由を教えてください。

もともと学校の先生になりたかったので、高校2年の文理選択の際には、教育学部に行くために文系に進もうと思っていたんです。そうしたら先生たちに「お前はどう考えても理系だろう」と言われてしまい(笑)、理学部や工学部でも教員免許が取れるとのことなので、理系に進みました。さらに、数学科に在籍しているという予備校のティーチングアシスタントの先生から、数学科では数学をたくさん勉強できるうえに、教員免許も取れるという話を聞いて「こんなにおいしい話はない!」と、数学科への進学を決意しました。

―教員志望だった坂田先生が研究者の道へ進もうと思ったのは、いつ、どうしてですか?

高校3年生のとき、予備校の先生から「πとeはそれぞれ無理数だけど、これらを足した“π+e”が有理数なのか無理数なのかということはいまだにわかっていない※。この問題を解けたら世界中に名前が知られることになる」と教わった際に、「こんなに素朴な問題がまだ残っていて、これを解くだけで賞賛されるなんて、数学の研究はすごい」と感じました。それと同時に、このまま学校の先生になったら高校数学までの世界のなかで考えなければならないと思い、とても窮屈な気持ちになりました。大学で数学を勉強して学者になれば、いくらでも新しいことを発見し続けられるというところに可能性を感じて、そのころから大学院の博士課程に進むことを考えるようになりました。

※1+πと1-πはともに無理数だが、(1+π)+(1-π)=2は有理数。無理数+無理数は無理数とは限らない。
○高校数学と大学数学の壁

―高校数学と大学数学はまったく違うものだ、という話を聞いたことがあります。坂田先生は高校と大学の「壁」を感じることはありましたか?

はい、大学1年生のゴールデンウイーク前にさっそくその壁にぶち当たりました。そもそも、大学生は授業に出なくてよいものだというイメージを抱いていたので(笑)、授業が始まったばかりのころはサボっていました。授業が本格化したころを見計らって出席しはじめたのですが、すでにちんぷんかんぷんでした。講義形式と演習形式の授業がありましたが、どちらも大学受験のときとは全然別の感覚で、巻き返しを図ろうと思ってもまったく身に付いてこないんです。課された演習問題に2日〜3日かけても解けないことは日常茶飯事でした。そこで先生のところに「3日考えたのに解けなかったのでヒントをください」と相談に行ったのですが、「3日で解けないなら、3カ月あれば解けるんじゃない? 大学の数学とはそういうものだよ」と言われてしまった。高校までは限られた時間のなかで問題を解くという"処理能力"を問われていたけれど、大学は学問をやる場所なのでしっかり理解しなければならないということに気づきました。

それからは、講義ノートを読み返したり、問題を解いたりと、休日はカフェや図書館にこもって1日10時間くらい勉強しましたね。こうして大学1年生前期の段階で一生懸命勉強したことで、数学に対する心構えと習慣が身に付きました。

―数学に対する心構えと習慣とは、具体的にどういったものでしょうか?

高校数学の場合、ひとつの問題に対して、5分〜10分考えてわからなかったら解答をみて解法を覚えるというような勉強の仕方があると思います。私はそうでした。そうではなく、5分〜10分考えてダメならいったん心を落ち着けてもう一度問題文を読んでみようとか、それでもダメなら明日またチャレンジしよう、といったように、気長にひとつの問題について考えることでしょうか。

ちなみに「3カ月あれば解けるんじゃない?」と先生に言われた問題は、その後1週間ほど考えたら解けました。やはり、高校までの習慣がよくなかったと思います。数十分の制限時間内に問題を解くことが求められる高校数学では、少し計算が込み入ってくると自分の方針が不安になってきて、そこで手を止めてしまう。しかし、この問題では、面倒な計算でも、気長に計算して押し切ったら解けるのではないかと考えました。演習形式の授業のなかで、黒板の端から端まで使って説明することになりましたが、私の考えた解答で合っていました。

○三角形の公園をいちばん明るく照らすには?

―学部生のころにそうして数学の基礎知識を身につけていった後は、誰も解いたことのない問題、いわゆる論文になるような問題に挑むことになると思うのですが、それはいつごろでしたか?

修士1年のときです。セミナーで、指導教官が仕入れてきた問題を後輩に紹介していたのですが、それを自分でも考えてみたんです。後輩は解く気がなかったし、先生も問題を出したことを忘れていたのですが(笑)、試行錯誤の跡を先生に見せた際に、これを修士論文のテーマにしようということになりました。

―それはどういった問題だったのでしょうか?

文部科学省の学習到達度調査(PISA)にあったものなのですが、三角形の公園に街灯を一本立てる際、どこに街灯を立てるのがよいかという問題です。PISAの解答は、「外心(外接円の中心)」だったのですが、それでは納得できず、公園をいちばん明るく照らす「灯心」という新しい中心を考えた研究者がいました。

私は、三角形だけでなく、ほかの図形の場合も考えることにしました。数学者はまず、そもそも「灯心」というものはいつでも存在するのかどうかということを考えます。これは早々に解けたのですが、修士論文のメインの結果とするには弱かった。そこで「灯心」が存在する場合、果たしてそれはひとつだけだろうかということを考えました。灯心を2個以上もつ公園が存在することはわかっていたので、この考察には意味があります。その結果、公園が線対称でかつへこみがない(凸領域)ならば、灯心は公園の対称軸上にひとつだけ存在するということがわかりました。

―修士論文のテーマは指導教官のアイディアがベースになっていると思うのですが、数学の研究では一般的に、どのようにして研究テーマを見つけるのでしょう。

博士課程では、修士論文で用いた計算手法のアイディアを、ほかの"由緒正しい"数学の問題に流用できないか考えてみることにしました。大学1年生のときに使っていた微分積分学の教科書をなんとなく眺めていたときに、熱方程式の解が、修士論文で研究した関数に似ていることに気づいたのです。「これで由緒正しい偏微分方程式に新しいことが見出せた!」と思ったのですが、20年前にすでに同じことを考えていた研究者がいました。そこで私は、公園の問題と熱の問題が両方とも一度にわかる、普遍的な枠組みを作ろうと思ったのです。これが博士論文のテーマとなりました。しかし、これでもまだ人のやっていることの真似ごとをやっているような気がして、何か新しいブレイクスルーがほしいと悩んでいるところではあります。

●数学なんて役に立つんですか?
○「定理を思いつく」ってどういうこと?

―「シャワーを浴びているときに定理を思いつく」という坂田先生のエピソードを聞きましたが、"定理を思いつく"というのは、いったいどういう状態なのでしょうか?

「○○ならば××」という形の証明の必要な主張を「定理」と呼びます。「定理を思いつく」というのは面白い仮定「○○」と結論「××」のペアに気づくことを言います。この段階では正確には「問題を思いついた」と表現すべきでしょうが、証明できたことにして、先走って「定理を思いついた」と言ってしまうことがあります。もちろん、ちゃんと証明もできた後は「定理を思いついた」と堂々と言っています。一方、「○○ならば××」という主張は先にあって、その証明をしようとするときに、計算の難しさなどの理由で、途中で行き詰まることがあります。その証明の困難を突破できたときは「定理が得られた」や「定理の証明を思いついた」という表現になりますね。

どちらも、シャワーを浴びているときだけではなく、気晴らしにジムで運動をしているときや、テレビをみながらうとうとしているとき、散歩をしているときも経験したことがあります。机に一生懸命向かっているときは、頭が凝り固まっていてつまらないアイディアしかでてこないんですよ。

―気晴らしだと思っていても、常に数学のことが頭のどこかにあるということなんでしょうね。「数学なんてやってなんの役に立つのか」と言われることがときどきあると思いますが、これについてはどのようにお考えですか?

数学は科学の共通語ですから技術立国である日本の土台を支えています。しかし、数学を直接用いて自分の身のまわりの生活を豊かにしている人はほとんどいないという意味で、数学は役に立たないでしょう。少なくとも私は食事や掃除をするときに数学は使いません。数学を勉強して「あぁ、役立ってるなぁ!」と感じている人は理工系に限ってもごく少数の人たちだと思います。

しかし、小中高で学ぶ算数や数学は、多くの人に対して、間接的に役に立っていると思います。数学では「仮定がこうならば結論はこう」と人に納得できるように説明しますが、人と話すときにはこういった習慣が大切です。感情のままに喋って最初と最後で言っていることが違うと、商談や家族会議などの大事なところで人間関係が崩れますよね(笑)。数学を真面目にやっておくと、「こういうことが目的で、現状はこうで、こうしていくと計画的に無理なく目標達成できる」といったように、論理的にものごとを考える習慣を身に付けることができます。これは世の中をまわしていくために人として必要な力だと思います。

―なるほど、それは研究や学問の営み全般に言えそうな気もしますが、数学は特にその傾向が強いかもしれません。数学に取り組んでいて、いちばんうれしい瞬間はどんなときですか?

世の中の誰も知りえなかったことを自分がいちばん先に発見した瞬間は最高ですね。修士論文の定理が得られたときの感動は忘れられません。教科書を読んでいて詰まったときによくよく考えてみて、理解できた瞬間のおもしろさというのもあります。

―数学者としての今後の目標を教えてください。

今は学生時代の指導教官が与えてくれたテーマを大きくしているという状況なので、今後はその指導教官に報告した際に驚いてもらえるような、誰も想像しえなかった結果を出したいです。「そんなことがなりたつのか」「よくそんな問題設定が思いついたね」と言われるような問題提起をしたい。そのために、頭を柔軟にして、常に新しい視点を入れていきたいです。

また教育のほうですが、民間企業へ就職したい人や主婦になりたい人、どんな道に進むとしても、大学で学問をするということの幸せを味わってくれる学生を増やしていきたいと思っています。最近は、「こんなことは将来の役に立たない」とか「英語は役に立つからやっておけ」といったように効率を優先する風潮がありますが、私は損得を抜きにして、学問にどっぷり浸かることのおもしろさを伝えたい。おもしろくないのであれば、おもしろくないと言い切れるだけ、その学問に向き合ってみてください、と言いたい。そういう価値観があることを学生に紹介していきたいと思っています。

(周藤瞳美)