女子サッカーの澤穂希選手が2015年12月17日、都内で引退会見を開いた。20年以上にわたり女子サッカーを牽引し、ワールドカップに6大会連続出場、2011年には優勝に導いた。日本代表として通算83ゴールは男女を通じて史上最多記録である。引退会見で、澤選手は次のように語った。

「一番の理由は、心と体が一致してトップレベルで戦うことがだんだん難しくなってきたと感じたからです。(言葉をつまらせる)……人生の最大の大きな決断となりましたが、悔いのない、やりきった、本当に最高のサッカー人生でした」

会見では司会者から、「8月8日に入籍をされて、そしてこの引退発表と、どうしても結婚と引退を結びつけて考えてしまうんですが」という質問も投げかけられ、「全くそれはないです。結婚していようがいないであろうが、この決断には変わりなかったと思います。むしろ主人が支えてくれたので、この1年がんばれたと思ってます」と回答した。

仕事と結婚、澤はどちらを選ぶか

世界的なアスリートに「寿退社ですか?」とも受け取れる質問は愚問ではあるが、これには澤自身の言葉が影響していると思われる。2011年に出版した澤の著書『夢をかなえる。 思いを実現させるための64のアプローチ』(徳間書店)の次のくだりだ。

「自分の生き方を考えると、サッカーも家庭も中途半端にはできないだろうな、両立は難しいだろうな、と思います。きっと、私がサッカーをやめる時は、結婚する時になるんだろうなと、何となくイメージすることはできます」

「サッカーをやめる時は、結婚する時」と書かれてはいるが、実際には逆で「やめる決意ができたから結婚した」と考えるほうが自然だろう。というのも、2003年に澤は当時交際していたアメリカ人男性との結婚を考えたが、そのときはサッカーを続けることを選んだからだ。

「サッカー選手を引退し、結婚することも考えました。家庭に入って彼を支えるのもいいかなって。けれど、お互いの話し合いの中で、彼はこう言いました。

『ここでサッカーをやめたら、きっと後悔するよ』

その言葉は、私の心に響きました。(中略)悩んでいるということは、私自身もまだサッカーをやり尽くしたとは思っていなかったということ」(「夢をかなえる。 思いを実現させるための64のアプローチ」)

「悩んでいるということはやりたいということ」と同様の発言は最近もしている。

「私はたぶん現役の間は全力でやって、引退を決めたら、もう戻ることはありません。自分の考えはブレないので」

「そのときに自分がチョイスしたのがベストだから。もちろん人間だから迷うわけですよ、何々をやりたいけどどうしよう、とか。でも、迷っているということは、実はやりたいんですよ。だったら私はやります」(「週刊文春」2015年10月29日号)

 結局、アメリカ人の彼氏とは別れることになったが、澤は自分の判断に後悔も迷いもないから、さっぱりとしている。

「しばらくは寂しい気持ちになったものですが、時間が解決してくれました。(中略)もちろん、いい想い出だってたくさんありますけれど、想い出は想い出であって、それ以上のものではないんです。常に自分の思いや目標に向かっては突っ走ってきたから、過去のことはあまり引きずりません」(「夢をかなえる。 思いを実現させるための64のアプローチ」)

「澤でも結婚できた」という偏見

仕事と結婚。澤にとってそれは対立するものではない。だから、どちらかを未練タラタラのなかで捨てるということもしない。もっとシンプルに、今自分がいちばんしたいこと、今の自分にとってのベストなことを選ぼうと務めているだけだ。

「私の場合は両方とも追います。仕事と恋愛は別のものだから比べることができないし、『どちらかだけ』と決めているわけでもありません。ただ、その時の自分にとって、何が最優先なのかは、はっきりと決めます。そして、好きな人や彼氏がいる時も、サッカー選手である自分にとってマイナスになると思うようなことは、しないようにしています」(「夢をかなえる。 思いを実現させるための64のアプローチ」)

しかし、世間の捉え方は違う。仕事をしていると恋愛・結婚は諦めざるをえないものとして捉えられる。たとえば、芸能レポーターの井上公造は、澤の引退にあたり自身の公式Twitterで次のようにツイートした。「今日は澤穂希選手の引退会見。日本の女子サッカー界を引っ張ってきた澤さんが、何故、引退を決意したのか気になります。と同時に、女性としても絶対、幸せになって欲しいですヽ(*^^*)ノ」(12月17日)。同様のコメントはネットで数多く見られた。

「女性の幸せ」という時代遅れな価値観

そもそも「女性としての幸せ」が何を指すのか想像するだけで時代遅れ感がハンパないが、まあ要するに恋愛や結婚や子育てを指すのだろう。あたかも澤がサッカーのためにそれらを犠牲にしてきたような言いっぷりだが、前述したように実際は犠牲にしていない。仮に犠牲にしていたとしても、他人から「女性としても幸せに」なんて言われるまでもなく、十分幸せな人生を歩んでいるように見える。

なぜなら、幸せは「仕事として」「女性として」なんてジャンルで分けられれているものではないからだ。結婚が幸せと思う人もいるだろうし、仕事が幸せと思う人もいれば、仕事も結婚も両立できてこそ幸せと思う人もいるだろう。それは人それぞれで、他人が「あなたは女性としての幸せが欠けているから、そちらでもお幸せに」なんて判断すべきことではない。

仕事を頑張る女性は、幸せを犠牲にしてるんじゃない

それに、8月の澤の結婚時には、さらに失礼極まりない発言がネットでもメディアでも多数あった。見出しだけ拾うと、「澤選手が結婚できたワケ 思考に特徴アリ」(「zakzak」9月16日)、「『澤穂希』ができて『吉田沙保里』ができない『結婚』という不思議」(「週刊新潮」2015年9月3日号)といったものがあったし、ネットには「澤でも結婚できたのに……」という嘆きや嘲笑の声があった。何をもって「澤“でも”結婚“できた”」と言うのか、意味がわからない。コラムニストの山田美保子は「後輩たちや友人が異口同音に言うのは、澤さんが女性らしい細やかな気遣いができるということ。さらには料理上手という点だ。実は女子力が高いレジェンドが結婚し、幸せそうにしていることは、彼女たちも大きな目標になるだろう」(「サンデー毎日」2015年8月30日号)と書いていた。

独断と偏見に満ちた悪い見本のような文章である。サッカー選手だって、結婚したいと思えばするだろうし、する機会がなければしない、ただそれだけの話だ。女性が仕事に邁進する、ただそれだけのことで結婚する能力がない(結婚に能力が必要なのか!?)、幸せの追求を犠牲にしている、女性として欠落していると勝手に判断するのは間違っている。

「恥ずかしい話、私、サッカー以外何もできないの」(「non・no」2013年5月号)

と澤は言った。自虐のようでむしろ自信に満ちあふれているように聞こえる。サッカー選手として自身の納得の行くまでプレーできたこと。その事実に敬意をもって拍手で送るしかない。

(亀井百合子)