サッカー・リオ五輪予選が危うい(3)

 U−22代表は、1月のカタールでリオ五輪の切符を手にすることが責務となる。熾烈な戦いは、この世代の選手への関心、注目を高めることを意味するだろう。そして、その熱気こそが選手を成長させる触媒にもなるはずだ。

 勝利する。

 その体験を積み重ねることで、精神的に逞しくなれる。禅問答のようになってしまうが、勝たなければ勝てるチームには永遠になれない。勝つための方策は必要だが、策に溺れたら勝利は逃げていく。事実、U−20W杯のアジア予選では、パスを回して支配しながら、ことごとく正念場で敗れているのだ。

 日本サッカーがポゼッションの袋小路に入ったのは、ひとつの指針としてFCバルセロナの戦いを追い続けたからだ。目標そのものは的を射ていたが、その本質が抜け落ちてしまっていた。

「いい選手は世界共通さ」

 FCバルセロナの育成ディレクターを5年間にわたって務め、今年からはバレンシアの育成ディレクターに就任したラモン・アレシャンコは証言している。

「世間ではバルサに合う選手をスカウトする、というように思われているかもしれない。でも、合う、合わないということはないんだよ。我々は、サッカーがうまい子を求める。それは小手先のうまさではない。スピード、テクニック、メンタル、そのうえでトッププレーヤーは"なにか"を持っているか。また、人間としてのキャラクターを持っていることも大事。厳しい場面でも戦えるかどうか」

 事実、バルサはかつてカルレス・プジョルのように技術的に拙(つたな)い選手をチームに引き入れ、その闘争心を発揮できる性質に価値を見いだしている。闘争するごとに強くなる、その可能性にクラブは賭けた。プジョルは強力なアタッカーと相対するたび、己の欠点を解消することができたのである。それはインテンシティというひと言では片付けることができない、"なにか"だったのかもしれない。

 一方、日本サッカーがセンターバックなど守備の選手にボールスキルの高さを求めたのは決して間違いではないが、そこにばかり執着してしまった。プジョルの持っていた"なにか"を見過ごした。守りの選手は、生来的に受け身にならざるを得ない。まずは相手アタッカーと堂々と戦える闘志と局面を生き抜く修正力を持っていなければならないのである。

 選手、人間としてのキャラクターとは、評価点には付けにくいかもしれないが、これが一番欠かせない。

 アトレティコ・マドリードのディエゴ・シメオネ監督は、「Dar la cara」としばしば表現する。「顔を出す」というのが直訳だが、「自分のすることに責任を持つ、問題から逃げない」という意味になる。元日本代表監督のアルベルト・ザッケローニは、「Personalita」(パーソナリティ)という言葉を頻繁に用いた。世界中の指導者が選手にはキャラクター、もしくはパーソナリティを求める。性格、人間性とも訳せるが、それでは意味が希薄か。意訳するなら、「事に挑むときに覚悟を持ってあたれる人、もしくはその覚悟」となる。

「お前ら、ついているもんはついているんだろうな!」

 あのアーセン・ベンゲルでさえ、名古屋グランパス監督時代にそう言って選手の闘争心を鼓舞したという。知将は、最後はメンタルの部分が勝負の行方を左右することを知り抜いていた。そこに真剣勝負の分岐点はある、と。そのストレスを制することができた選手だけがひと回り大きくなれる。男として戦う度胸、と言い換えてもいい。

 思えば、ユース年代で敗北を突きつけられてきたロンドン五輪世代の選手たちは、どうにかアジアを勝ち抜いてロンドン五輪本大会に出場する切符をつかんだ。そして初戦で強豪スペインを破ったとき、顔つきさえ変わった。その後は破竹の勢いで準決勝まで進出した。修羅場をかいくぐった選手たちは、大会メンバー18人のうち、サブGKを除いて全員がフル代表に選ばれている。

 リオ世代の選手たちが飛躍を志すなら、五輪アジア最終予選をひとつのきっかけにしなければならない。実力は伯仲。必ずしも勝てるわけではないが、必ず負けるという要素もない。戦術、体力を超えたところに、勝負の趨勢はある。

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki