15歳で代表デビューして以来、日本の女子サッカー界を牽引してきた澤。「なでしこジャパン」が躍動する現在に至るまでには、幾多の敗戦、悔し涙を乗り越えてきた。(C) Getty Images

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“その時”がついに来てしまった。15歳で代表デビューして以来、代表戦出場通算205試合・83ゴール。20年に渡り、日本女子サッカーを牽引してきた澤穂希が引退を決意した。
 
 2011年の女子ワールドカップ優勝、バロンドール獲得、2012年ロンドン五輪で銀メダル。彼女が打ち立てた記録は数知れない。そのいずれも20年という月日をかけてゼロから積み上げていったものだ。
 
 日の丸を背負う先輩を必死に追いかけた中学時代から澤は目を引く存在だった。だが初めての世界大会だった96年アトランタ五輪後に、目を掛けてくれた先輩選手たちの多くが引退。この頃から、澤にとっても、日本女子サッカーにとっても苦しい戦いがスタートすることになる。
 
 今で言えば、U-20年代あたりの選手へと世代交代した代表は世界とは計り知れない差があり、アジアでもタイトルからは程遠い位置にいた。屈辱的な敗北を繰り返し、試合後に悔し涙を流す澤の姿を目にするのも決して珍しいことではなかった。
 
 けれど、世界に触れるたびに感じる“壁”は、澤をより貪欲にした。「もっと上手くなりたい」はもはや口癖。この時代の選手たちはサッカーの戦術、技術を凄まじい勢いで吸収していく。その姿勢は、より高度なものを求められるという環境に飢えているようにも見えた。
 
 角度を変えれば苦労と見られるかもしれないが、澤にとってはサッカーの質を高めるための機会であり、喜びだった。そしてついにドイツ・女子ワールドカップで手にした世界一。MVPと得点王に輝いた澤への注目もいやおうなしに高まっていった。
 
 そんな澤の立ち位置が大きく揺らぎ始めたのはロンドン五輪以降のチーム作りに入る頃のことだ。世代交代が囁かれる流れに、出場機会だけでなくメンバー招集ですら若手に優先権があった。チームとしてさらなる高みを目指せると信じていただけに、その内なる葛藤は我々が想像するよりも大きく、険しいものだったに違いない。
 
 どれだけ劣勢な状況にあっても、彼女は“これまで以上の澤穂希”であることを示し続けなければならなかった。失敗を恐れずにチャレンジだけが許される若手に比べて、大ベテランがなでしこジャパンに留まるためには“挑戦”ではなく、“証明”が必要とされるのだ。納得できない途中交代に「私のプレーはマズかったのか」と自問自答を繰り返していた彼女の姿が今も忘れられない。
 
 すべてを受け入れた澤が最後になでしこジャパンとして戦ったカナダ・女子ワールドカップは、全7戦で先発出場は2試合。たるんだ気配を察知すれば、手加減なしのプレーで喝を入れていく。ピッチ中央でなくとも、たとえベンチからでもチームを支える覚悟を決めた。
 
 それでも、ピッチ上での彼女のプレーは雄弁であり、絶大な影響力を発揮した。たとえわずかな時間であっても最後まで澤らしいプレーを貫き通した大会だった。
 
 澤穂希であったからこその喜びがあった陰で、彼女だからこそ背負わなければならない苦しみもあった。そのすべてをひっくるめて「悔いのないやりきった最高のサッカー人生」だったと彼女は清々しく微笑んだ。
 
 現役最後の舞台となる皇后杯で彼女の雄姿を見ることができるのは最大で残り3試合。有言実行で走り続けてきた澤穂希。その生き様を胸に刻み、万感の想いを込めた拍手で送りたいと思う。
 
文:早草紀子