12月17日に引退会見に臨んだ澤。日本女子サッカー界に偉大な足跡を残したレジェンドは、笑顔で現役生活を振り返った。写真:田中研治

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 12月16日、長らく日本の女子サッカー界をリードしてきた澤穂希が引退を発表した。幾多の挫折を乗り越えて実現した「なでしこジャパン」の華々しい快進撃。それは、澤の才能と人間性なくしてあり得なかったはずだ。
 
 果たして、澤穂希という選手はいかにして形作られたのか。ここでは『週刊サッカーダイジェスト』2012年1月10日・17日号で掲載した、彼女のルーツを辿った記事を全文転載でお送りする。(文:早草紀子)
 
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 澤穂希。言わずと知れた、日本の女子サッカー界の女王であり、なでしこジャパンの“魂”である。ピッチ上で見せる頼もしいプレーは、しかし与えられた才能だけで成り立っているわけではない。彼女は自身を語る際、「努力の人間」と言う。一つひとつ、着実に積み重ねた努力の結果、今があるのだ、と。
 
 澤がサッカーに触れたのは6歳の時。兄の影響だった。水泳にも力を注いでおり、サッカー一本に絞ったのは12歳の頃だが、小学生時代は週に4〜5日、東京都府中市にある府ロクサッカー少年団(府中六小のチーム)で男子とともに汗を流した。府ロクに入った当初は、澤の他にも女子はいたのだが、しばらくするとひとり、またひとりとサッカーから離れていく。そうしたなかで、澤だけが辞めなかった。
 
 当時からずば抜けた身体能力を持っていた澤は、足も速く、目を引く存在だった。とはいえ、そこは男子と女子の違いもあり、最初からトップレベルだったわけでもない。
 
「でも、誰よりも熱心でしたよ」
 
 こう振り返るのは、澤を含めた府ロクの第17期生の指導担当者だった佐々木一昭だ。自身もサッカー経験者だった佐々木は定年後、自宅の目の前が府中六小のグラウンドということもあり、府ロクで子どもたちの面倒を見ていた。
 
 ある日、雨が降りそうなので練習中止の連絡を回した後、もしかしたら誰か来ているかもしれないと、グラウンドに顔を出してみると、その予感は的中する。
 
「澤がたったひとりでね、空を眺めているんですよ(笑)。『今日は中止だから』と帰らせたことが何度かありましたね」(佐々木)
 
 小学生といえば女子のほうが身体の成長も早く、高学年になると、GKに続いて2番目に高い身長となり、中心選手としてプレーしていた。6年生になる頃には、利き足の右だけでなく、左足も問題なく使うことができていた。
 
 グラウンドだけでなく、家に帰っても兄とともに、とにかくボールに触れていた。リフティングの腕前もトップクラス。しかしその陰には、歯を食いしばってボールに向かっていく、彼女自身の日々の努力の積み重ねがあったのだ。
 
 女子選手ということで悔しい想いもしてきた。全日本少年サッカー大会は、子どもたちにとっては夢の舞台である。しかし、“少年”という名称が示すとおり、当時は女子選手の出場が認められていなかった。
 
「非常に悔しかったと思いますよ。私たちとしても、チームとして交渉はしてみたんですけど、例外は認められなくてね……」(佐々木)
 
 だからこそ、全国大会の常連チームが集う富山での大会に招待された時のことを、佐々木は今でも鮮明に覚えている。
 
「決勝戦の先取点は澤が決めて、大会も優勝しました。この時の経験が一番印象に残っていて嬉しかったと、彼女は今でもポツリと言うことがありますね。私は勝手に、あの時、全国大会には出られなかったからだな、と思っていますけどね」(佐々木)
 
 全国の舞台に立てなかった澤にとって、この富山での大会は全国区のチームを相手に戦える貴重な舞台だった。その決勝での活躍によって、自身の実力を証明してみせた。
 
 そんな負けず嫌いの部分もあれば、ホロリとさせられることもあったと佐々木は振り返る。
 
「人見知りで、口数は少なかったですよ。でも、根は優しくて、思いやりがあって、すごく気が利く子でした。遠征時など、私が大きなバッグを持っていると、スッと傍に寄ってきて、一緒にバッグを持ってくれるんです。まあ、私が60歳になってから指導した子ですからね。孫みたいなもんですよね」(佐々木)
 
 中学生になった澤は読売サッカークラブ女子・ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)の下部組織であるメニーナに入団し、すぐさまベレーザに昇格することになる。学校が終わると、佐々木の自宅で制服からジャージに着替え、練習へと向かう日々がしばらく続いた。
 
 練習後、学校の道具などを取りに佐々木の家に戻ってくるのは夜遅くなってから。そんなハードスケジュールにも澤は根を上げることはなかったが、佐々木を始め、多くの人の温かいサポートがあったからこそ、好きなサッカーに打ち込むことができたのだろう。
 
 澤のサッカー人生を開花させることになるベレーザでは、かけがえのない多くの出会いがあった。「人見知りの激しい性格だった」と本人も認める中学生時代。そんな澤をありのままに受け止めてくれたのが、ベレーザに所属する先輩選手たちだった。
 
 当時のベレーザには、本田美登里(現AC長野パルセイロレディース監督)、野田朱美(現日本サッカー協会女子委員長)、高倉麻子(現U-19女子代表監督)など代表選手を多く抱えた国内屈指の強豪チームだった。そんな選手たちとともに、中学生の澤は“大人のサッカー”に触れながら順調に成長を遂げていった。
 
 しかし、澤の成長を促したのは愛情のある先輩たちだけではない。男子に交じってサッカーをやってきた澤にとり、同性、同年代のライバルの存在も貴重だった。なかでも、澤同様、中学生でメニーナからトップに昇格した同級生の加藤與恵、原歩のふたりの存在は特別だった。“中学生トリオ”と呼ばれた彼女たちは注目を集め、そして常に比較された。
 
「そもそも、タイプの違う3人を比べるなんて、おかしな話ですよね。でも、そうした視線にさらされることで、互いに意識して、刺激し合いながら成長できたのは事実です。まさに周りの思うツボだったのかも」と、澤は懐かしそうに振り返る。
 
 対して、“中学生トリオ”のひとりである原の見解はこうだ。
「周りはライバルという括りで見ていたかもしれませんが、私は3人のなかでも実力は一番下だと思っていたから、まだ楽だったのかもしれません(笑)。自分にできるのは、ふたりの後を必死に追っていくことだけでした。きっと先頭を走る澤のほうが、何倍も苦しかったはず」
 
 原が澤を最初に見たのは、読売サッカークラブのスクールに参加した小学6年生の時で、すでに“大人”の貫禄を放っていた澤に圧倒されたという。ベレーザでともに戦うようになっても、澤は主力としてプレーし、代表にも選出されていた。
 
 原にとって、澤は常に一歩先を行く存在だった。
「そこに追いつけば、そして追い越すことができれば、自分はきっともっと強くなれると思ってました。でも当時はあまり話をしませんでしたね。ごみ(加藤の愛称)はいろんな人と話をするタイプだったけど、私は逆。特に澤とは話さなかった(笑)。でも……“分かる”んです。ピッチ上でも、澤は今どうしたいのか、なにを伝えたいのか、が。だからこそ話す必要がなかったのかもしれませんね」
 
 澤と原、このふたりは様々な面でよく似ている。だからこそ、互いの存在を認め合いながら、言葉を交わさずとも理解し合えたのだろう。

 
 澤の代表デビューは15歳。それから18年間、澤は代表選手として走り続けている。彼女にとっての代表チームとは「人生の半分以上を代表として戦ってきているから、帰ってくるとホッとする場所」でもある。
 
 初めて女子サッカーが五輪の正式種目となった96年のアトランタ大会後、先輩たちが退き、澤たちの若い世代が後を引き継いだ。そして、若い力で臨んだ99年のワールドカップでは惨敗。改めて世界との大きな差を痛感させられ、澤はかねてから視野に入れていたアメリカへの移籍を決意する。
 
「こんな強い人たちとサッカーができたら絶対に楽しいはずだし、もっと強くなれる」と確信し、01年に華々しく開幕したアメリカプロサッカーリーグ(WUSA)に挑戦。世界水準の選手にもまれながら、着実に力をつけていった。
 
“中学生トリオ”に話を戻すと、澤はアメリカで、加藤はベレーザで活躍、原は伊賀FCくノ一へ移籍(02年)と、別々の道を歩んでいたが、3人が久々にチームメイトとして名を連ねたのが北京五輪だった。グループリーグ最終戦、ノルウェーとの試合で途中出場した原は、日本の5点目となるゴールを決める。直後、万感の表情で原を力強く抱きしめたのが澤だった。
 
「もう勝負は決まっていたのに、澤が駆け寄ってきてくれて……すごく嬉しかった。いろんな記憶がよみがえってきましたね」(原)
 
 その数分後、加藤がピッチに送り出され、“中学生トリオ”が再び、同じピッチに立った。「オリンピックの舞台で、また3人でプレーできるなんて思っていなかったから、あの数分間はすごく嬉しかった」と、澤も特別な時間だと感じていた。
 
 加藤はこの08年を最後に、そして原は翌09年シーズンをもって現役を退いた。このふたり以外にも、北京五輪後、多くの仲間が第一線から姿を消していった。それでも、澤は自身の伸びしろに賭けた。北京での世界4位という成績に確かな手応えを感じ取っていたからだ。
 
 この時、澤は30歳。次のロンドン五輪までの4年間を、選手として最後の勝負を賭ける重要な期間、まさに勝負の4年と見据えたのだ。そして、その決断は間違っていなかった。代表ではもう一度、ゼロからのチーム作りとなったが、どんな苦境にも屈することなく、目の前の戦いに挑み続けた。そして迎えた2011年夏のワールドカップである。
 
「メンバーを見た時、ドイツやアメリカに勝つなら今しかないと思った。絶対にメダルが獲れると確信できたんです」という直感は正しかった。
 
 しかし、世界との差が埋まったわけではない。だからこそ、歩みを止めるわけにはいかないのだ。「欲が出てきた」という澤が新たな目標に掲げたのはロンドン五輪での金メダル獲得である。
 
 集大成となる勝負の一年が、まもなく始まる――。(本文敬称略)
 
※『週刊サッカーダイジェスト』2012年1月10日・17日合併号より転載