学生の窓口編集部

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12月15日放送、「優しい人なら解けるクイズやさしいね」では、HONDAの創業者本田宗一郎の伝説を特集。静岡県浜松市に自動車修理工場を開業し、現在の本田技研工業に成長させた。だが、葬儀は出したくなかったという。理由は、渋滞が起きるため、道路が渋滞してしまうのを避けるために、葬儀を出すのを拒んだという。

本田宗一郎は1906年明治39年の生まれ。幼い頃からメカが好きで、特に機械いじりが好きだった。1948年に従業員20名で二輪車の研究を始めた。本田技研工業は世界的な企業へと成長し、本田宗一郎は殿堂入りの自動車の帝王となった。

終戦直後、特に研究もせず、塩を作って米と交換したりなどしていたが、買い物に苦労していた妻を見て、自転車にエンジンをつけたら買い物が楽になるのではないかと考えて、オートバイ研究が始まった。

会社は個人の持ち物ではないという考えの元に、身内を入社させず、会社名に個人の名前をつけたことを後悔していたという。従業員からは恐れられており、「オヤジ」と呼ばれていた。腹を立てて部下を殴ることもあったが、中途半端な仕事をした時などに雷が落ちたという。

技術者であることにこだわり、皇居で表彰されることがあっても、ツナギで出席しようとして周囲に止められたことがある。最終的には燕尾服を着たが、そもそも燕尾服など持っていなかった。最後まで技術者としての矜持を貫いた。

社長を退職後は、全国のHONDAディーラーをめぐった。そこで技術者が握手を求めてきたが手が油まみれで汚かった。それを洗おうとするのを制して、自ら喜んで油まみれの手を取って握手したという。技術を愛し、技術者を愛する素晴らしい社長だった。

また、普通の社長なら、役人と適当なところで妥協するであろうが、本田は会社と従業員を守るために官僚と徹底的に戦うなど、愛と信念の深い人でもあった。

本田宗一郎の名言に、「世界一あっての日本一」というものがある。中小企業だったころからはじめから世界を視野に入れた活動をし、最初から頂点を目指しているのだ。

ホンダの公式サイトには、日本一と世界一の考え方について次のように語ったというエピソードが残っている。

「外国車の輸入制限によって自分の仕事を守ろうとするような鎖国的な考え方には、私は絶対に与(くみ)しません。技術の競争は、あくまで技術をもってすべきであります。(中略)どのような障壁を設けても良い品はどしどし入って来ます。(中略)良品に国境はありません。(中略)日本だけを相手にした日本一は真の日本一ではありません。(中略)一度優秀な外国製品が輸入される時、日本だけの日本一はたちまち崩れ去ってしまいます。世界一であって初めて日本一となり得るのであります」

また、品質においても妥協はなかったと公式サイトでは語られている。
「100%を目指したんじゃあ、人間のすることだから、1%やそこいらのミスをする。その1%を買ったお客さんには、Hondaは、100%の不良品をお売りしたことになってしまう。だからミスをなくすために120%を目指さなければならないんだ」。
と、品質は常に120%を目指している。これがホンダスピリットで、当時の全従業員に徹底された魂でもある。

会社内部に向ける視線もいつも厳しいながらも優しい。労使で激しく揉めた時なども「なあ、うちわ同士の喧嘩はやめような」とオヤジさんの一声で、揉め事はおさまり、労使ともに健全な協調性へと発展していったのだと労働組合の書記長が語ったとの逸話が、公式サイトに残っている。

結局、自動車会社の創業者である自分が葬式を出して、大渋滞を起こしてしまっては世間に申し訳ないという理由で遺言に残した。その遺言にしたがって、葬儀は社葬は行われなかった。親族のみでひっそりと葬儀が行われ、社をあげての葬儀は行われなかったのである。おもいやりというよりもあくまで道路のことや自動車のこと、そして自動車に乗る人間のことを第一に考えて、そういった行動に出たのである。