中田考『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)

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 パリ市内でIS(イスラム国)による大規模なテロが起きたことから、イスラームに対する関心がふたたび高まっている。もっともこれはムスリムにとって歓迎すべきことではなく、(私を含む)一般人の関心は「なぜ神の名の下に無辜の市民を殺すのか」に尽きるだろう。

 この問いに対して“正統派”のムスリムは、「テロはイスラームの教義ではなく、彼らはムスリムの名をかたっているだけだ」と批判してきた。大多数のムスリムが暴力を否定し、異なる宗教や主義主張の相手とも話し合いで妥協点を見つけようとする合理的(理性的)な平和主義者であることは間違いない。しかし残念なことに、凄惨なテロが「イスラーム」の名で繰り返されると、「無関係」というだけでは説得力を保てなくなる。

 ISは“正統派”に対して「自分たちこそが真のイスラームだ」と主張しており、その教義に共鳴してヨーロッパからイラクやシリアに向かう多くの若いムスリムたちがいる。ISの教義がデタラメなら、なぜ“正統派”のウラマー(イスラーム法学者)はそれを論破できないのか。

 こうした疑問に答えられる知識人は、日本にはおそらく一人しかない。それがイスラーム法学の権威でムスリムでもある中田考氏だ。

 今年1月のシャルリーエブド事件を受けて、中田氏はイスラームについての入門書を何冊か出版している。ここではそれを参考に、テロとジハードについて考えてみたい。

イスラームとヒューマニズムは両立できない

『私はなぜイスラーム教徒になったのか』(太田出版)などで中田氏は、「イスラームはムスリムにならなければわからない」と強調している。アッラー(唯一神)への信仰こそがイスラームの根幹で、それを共有せずにクルアーンの字句をいくら解釈しても本質がわかるはずはない。――このような理由から中田氏は、日本の「イスラーム研究者」を(ほぼ)全否定する。なぜなら、ムスリムのイスラーム法学者はいまのところ日本に中田氏しかいないのだから。このように中田氏は、自分が“オンリーワン”であることを巧みに活用している(もちろんそれが悪いわけではない)。

 イスラームとはなにか? 中田氏はそれを「神への服従」だという(イスラームの原義は「服従」)。イスラームへの入信の際、「アッラーのほかに神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の2つの章句を唱えるのだが、この章句をこころの底から信じたときに価値観の全面的な転換が起こる。この宗教体験がなければイスラームを語る資格はないし、説明されても正しく理解することはできない、というのが中田氏の立場だ(当然、私にもイスラームを語る資格はない)。

 こうした厳しい留保をつけたうえで中田氏は、「神への絶対的な服従」とは、アッラー以外のいかなる権威も認めないことだと述べる。従うべきは神だけなのだから、世俗の権力者はもちろん、カトリックにおける教会のような宗教的な権威もイスラームには存在しない。神の下にひとは平等であり、「いかなる人間の組織にも他者を従属させる権利はない」という“神中心主義”がイスラームの根本原理なのだ。

 このことから、イスラームとヒューマニズムが両立できないことがわかる。ヒューマニズムは神の場所に人間を置く「人間中心主義」で、アッラーに対する冒涜以外のなにものでもない。この論理では、当然、「人権」の居場所もないだろう。

 またイスラームでは、法人を認めない。法人とは特定の人間集団を「法的なひと」と見なすことだが、イスラーム法では、来世で懲罰を受けることがない「ひと」には存在の余地がない。そうなると「真のイスラーム社会」では会社は法人格を剥奪され、株式市場も廃止され、資本主義は廃棄されるだろう。そのあとにどのような経済が残るかは判然としないが、「権威によってひとを従わせてはならない」のなら、自営業と家族経営の小企業しか存続を許されないのではないだろうか。

 さらには、原理主義的なイスラームは近代国家の存在を認めない。国民国家は「国民(民族)が自らの国家を持つ」仕組みだが、部族(民族)主義こそがムハンマドがクルアーンで口をきわめて批判し、打倒しようとしている当のものだ。イスラームは民族を超えた宗教共同体(ダール・アル=イスラーム〈イスラームの家〉)で、国民国家の体裁をとった現在のイスラム諸国は(イランやサウジアラビアを含め)すべてニセモノなのだ。

 王権神授説から生まれた主権概念では国家は“神に相当する至高の権利”を持つが、これは唯一神の権威を否定する偶像崇拝以外のなにものでもない。また民主政(デモクラシー)も、“民主的”とされる手続きで選ばれた為政者の決定に国民を服従させる制度だからイスラームとは相容れない。唯一の正しい統治はシャリーア(イスラーム法)によるもので、民主政という「制限選挙寡頭制」の実態は独裁政治と変わらないのだ。

 このように原理主義的な立場からは、イスラームは反ヒューマニズム、反人権、反資本主義、反国家、反デモクラシー、反近代ということになる。

イスラームにはテロを批判する論理がない

 中田氏は、ヒューマニズムは「人間中心主義」だから反イスラームだという。だとしたら、ヒューマニズムの名のもとにテロを批判してもなんの意味もない。

 もちろんイスラームでも殺人は禁じられている。だがこれはすべてのひとに平等に人権が与えられているからではなく、クルアーンに(モーゼの律法にも)「殺すなかれ」と書いてあるからだ。

 テロが無差別殺人であれば、それが神の法に反することはいうまでもない。だがISはこれをジハード(聖戦)だと主張していて、クルアーンではジハードは「義務」であると同時に「天国への最短ルート」だから、賞賛されるべきことになる(ジハードで死んだ者は最後の審判を待たずに天国に直行できる)。

 卑劣なテロがジハードであるはずはない、と誰もが思うだろう。だが中田氏の論理では、これもまた信仰を持たない者の誤解だ。世俗の宗教的権威を否定しているイスラームでは、ジハードかどうか決める者はいないのだ。

 むろん多くのウラマーがテロを批判するファトワー(勧告)を出している。しかしISに近いウラマーは、「フランスは空爆によってイスラーム国の一般市民を殺害しており、報復としてフランス市民を殺すのはジハードだ」と主張するだろう。

 カトリック教会のような宗教的権威を持たないイスラームでは、ウラマーが異なる見解を述べた場合、いずれの主張が正しいかを客観的に知る方法がない。そうなると、個々のムスリムは誰の見解を「真のイスラーム」と見なすかを自由に決めていい(というか、それ以外にやりようがない)ことになる。このことを中田氏は、「イスラームは人の内心(プライバシー)に干渉しない」と述べる。内心を知るのは神だけで、ムスリム(を名乗る者)の行為をテロだとかジハードだとか、第三者が決めつけることは許されないのだ。

 こうして(中田氏のいう)イスラームでは、イデオロギー教育はすべて否定される。シャリーア(イスラーム法)をそのまま実行すると、一人ひとりのムスリムにそれぞれ「正しいイスラーム」があるというアナーキズムになるほかないのだ。――これは、イスラームに複数の教義がある、という相対主義ではない。教えはひとつしかないが、どれが正しいかは神しか知らない(人間には神の真意を知る術はない)のだ。

 だがそうなると、イスラームにはテロを批判する論理がなくなってしまう。ISのファトワーを信じてテロ(ジハード)を行なったのはその信徒の「内心の自由」で、神がそれをジハードと認めれば死者は天国に直行し、殺人と見なせば地獄の業火に焼かれる、というだけのことだ。

 そのうえ中田氏によれば、イスラームでは無知は罪にならない。偽のファトワーを信じたことが無知によるものであれば、テロの実行犯はアッラーの寛大さによって地獄行きを免れるかもしれない。すべては神の御心次第(インシャラー)なのだ。

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