中学1年にして体重100キロ超。洞爺湖に程近い北海道の壮瞥町ですくすくと育った少年は、その体躯でいながらスポーツ万能。野球や水泳に才を見せ、柔道では体格で上回る高校生を投げ飛ばしていたという。
 “北に怪童あり”との評判は瞬く間に広まり、この少年の元へ多くの相撲部屋からスカウトが参集した。
 そうして三保ヶ関部屋に入門した北の湖は、1967年(昭和42年)1月、13歳にして初土俵を踏むと、中学卒業間際の'69年3月に15歳9カ月で幕下に昇進。以後、当時の最年少記録を次々と更新するスピード出世を果たすことになる。

 だが、同じ頃、相撲界はもう1人の“天才”出現に沸いていた。日大相撲部時代に、学生横綱をはじめとするタイトルを総ナメにした輪島である。'70年1月に幕下付出で初土俵を踏んだ輪島は、一直線に番付を駆け上がると、'73年5月場所には幕内全勝優勝。角界入りからわずか3年半で、横綱にまで昇進してみせた。
 金色のまわしを締め込み、得意の左下手投げは“黄金の左”と呼ばれて一世を風靡。リンカーン・コンチネンタルで蔵前国技館に乗りつけるなど、派手なふるまいは一部でひんしゅくを買いながらも、大相撲新時代の到来を予感させた。

 5歳年上ながら後輩の輪島が快進撃を続ける中、北の湖も18歳7カ月で新入幕。輪島が横綱に昇進した'73年には、小結に昇進して初の三役入りを果たした。
 「北の湖の昇進の早さも相当で、まだ19歳という若さから次世代のホープとして注目されてはいたものの、当時の輪島は別格でした。でも、北の湖自身は、のちに『この頃が一番相撲を取っていて楽しかった』と話しているように、輪島をライバル視することなど毛頭なかったのでしょう」(スポーツ紙大相撲担当記者)

 70年代初頭に大鵬や北の富士、玉の海ら人気と実力を備えた横綱が次々と引退し、土俵は主役不在となっていた。関係者や好角家は“輪島時代”の到来を予感していた。
 しかし、北の湖も急成長を見せ始める。三役昇進までは攻めっ気の強い突き押し相撲であったが、関脇に昇進した場所中、足首を骨折したのを契機に四つ相撲へと切り替え、これが功を奏した。成績は上昇し、翌'74年には初場所と5月場所で優勝を飾り、続く7月の名古屋場所で、ついに綱とりに挑むまでになる。

 13勝1敗で千秋楽を迎え、優勝に王手をかけた北の湖は、2敗で追いかける輪島との直接対決を迎える。ここで輪島は得意の左下手投げで勝利すると、相星での優勝決定戦にも勝利。先輩横綱としての意地の逆転優勝を果たしてみせた。
 だが、優勝を逃した北の湖も、成績優秀により晴れて横綱に昇進。ここから両雄による“輪湖時代”が始まった。2人が横綱に在位した約6年半、千秋楽の結びで20番を戦って、共に10勝とまったくの互角。そのうち、どちらかに優勝が懸かった対戦は7番を数える。

 また、両者の対戦は1分を超える大相撲になることが多く、三度の水入りとなる熱戦もあった。
 「北の湖は右上手、輪島は左下手を得意とするため、両者の取組では当然がっぷりの左四つになるのですが、ヘタな動きは墓穴を掘ることになり、自ずと慎重な取り口になるわけです」(同)

 とはいえ、ただ組み合って固まっているわけではなく、北の湖が低い重心からの寄りや腹に乗せての吊りを見せれば、輪島は半身の体勢から左下手投げを打って堪え、右の腕で絞って寄り返すという攻防が繰り広げられる。
 「黄金の左と呼ばれた輪島ですが、実は右の腕力こそが強烈で、右で絞って相手を崩すから左の下手投げが決まる。北の湖もこれを分かっていて、輪島の右をいかに殺すかに心を砕く。豪快な取り口の中の細かな駆け引きも、両者の対戦の見どころでした」(同)

 70年代中盤以降は輪島が腰痛などで休場することが増え、一方の北の湖は“無事これ名馬”を地で行っていたため、今となっては北の湖優勢の印象を持つファンも多いだろう。
 しかし、輪島23勝、北の湖21勝の対戦成績が示す通り、実力伯仲の名勝負であったのだ。