海外ドラマ脳には、こう見えた


上映中の映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」。クリムトの名画〈アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I〉をめぐる実話の映画化で、ナチスに奪われた伯母の肖像画の返還を求めて、オーストリア政府に対して裁判を起こした女性の物語です。


第2次世界大戦中、ナチスのユダヤ人迫害から逃れてオーストリアからアメリカに亡命したマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)。82歳のマリアは1998年、若き弁護士ランディ・シェーンベルク(ライアン・レイノルズ)の助けを得て、オーストリア政府に絵を返してほしいと依頼するも却下され、2000年、ついに訴訟を起こす。


女王陛下(「クイーン」)から元スパイのスナイパー(「RED/レッド」)まで芸域広いヘレン・ミレン。この映画でも、知性とユーモアあふれるヘレン・ミレンの演技がすばらしい!ってことは、いろんなところで紹介されてますし、このクリムトの絵がいかに名画かってことやナチスの美術品略奪の歴史的経緯については、山田五郎先生が熱く解説されているので(山田五郎、数奇な運命をたどった名画「黄金のアデーレ」の魅力を力説!)、ここでは、ちょっと別の視点から書きたい。


ライアン・レイノルズ演じる、駆け出し弁護士ランディが成長していく様子がいい。ライアン・レイノルズというと、海外ドラマ脳(HuluとNetflixとTSUTAYA DISCASに包囲されて、海外ドラマに浸りまくる生活で育まれた思考回路)には、現妻ブレイク・ライヴリー(「ゴシップガール」のセリーナ)とのゴージャスカップルの図がまず浮かんでしまうが、私生活のセクシーなモテ男のオーラを封印して、最初は全然イケてない青二才として登場。マリアとともに奮闘する過程で、自身のルーツと使命感に目覚めてどんどん頼もしくなっていく、その変貌ぶりがあっぱれです。カッコいい老婦人と生意気な若者のバディものとしても楽しめる。

監督の奥さんは「ダウントン・アビー」の伯爵夫人



監督は「マリリン 7日間の恋」(2011)のサイモン・カーティス。監督も東欧にルーツをもつユダヤ系英国人なので、この実話にいたく心を動かされて映画化したいと思ったというのも、むべなるかなです。

で、ライアン・レイノルズのランディも、迫害を逃れてアメリカへ亡命したユダヤ系作曲家シェーンベルクの孫です。それなのに、いくら返還交渉のためでも「家族を奪われ、友人を殺されたあの国に、二度と帰りたくない」というマリアに、最初は、「そんなの半世紀も前のことでしょ」と言い放つくらい鈍感な若者なんでした。
が、実際にオーストリアの地を踏み、ホロコースト記念碑をおとずれて、収容所で殺された曾祖父母のことを思うとき、やっと覚醒します。それ以降、絵画奪還のために弁護士生命をかけて正義感を燃やす。

先祖がホロコーストを経験したユダヤ系のランディですら、「そんな半世紀も前のこと」って言っちゃうくらいですから、暗黒の歴史を忘れようとしている圧倒的大多数がいるわけで。世界中の鈍感な心に「目覚めよ」と呼びかける監督のメッセージを感じます。でもそれが辛気くさくないし、涙あり笑いありサスペンスあり、エンターテインメント映画としてよくできているんです。


舞台は現代のロサンゼルスと、20世紀初頭のウィーンを行ったりきたりする。ときおり挿入されるマリアの回想シーン。ウィーンの黄金時代。大富豪のマリア一家のアパートメントには一流の美術品が飾られ、そこは、クリムトやシェーンベルクなどの芸術家や、精神科医フロイトなど、ウィーンの文化人が集まるサロンだった。ナチス侵攻の直前におこなわれた、21歳のマリアとオペラ歌手フリッツの豪華な結婚式がそのピーク。


ここで、HuluとNetflixのせいで(しつこい)すっかり海外ドラマ脳の私が、思い出さずにいられないのが「ダウントン・アビー」。「ダウントン・アビー」は、タイタニック号の沈没事件(1912年)からドラマの幕が開きますが、「黄金のアデーレ」は、クリムトがアデーレの肖像画(1907年)を描いているシーンから始まります。
20世紀はじめのヨーロッパ上流階級や富裕層の生活、成熟した文化が、戦争をはさんで大きく変化していくところが描かれているのは、両者に共通します。


実は、サイモン・カーティス監督の奥さんはエリザベス・マクガヴァン。「ダウントン・アビーの」のグランサム伯爵夫人コーラです。この映画にも判事役でカメオ出演していますが、カーティス監督はきっと「ダウントン・アビー」をすごく意識してたと思う(決めつけ)。そういえば、コーラもユダヤ系アメリカ人富豪の娘という設定でしたね(その持参金のおかげで破産寸前だった伯爵家が救われたという話が何度も出てきます)。
戦前の幸福でハイブロウなマリア一家の生活が描かれることで、それが一瞬にして野蛮に破壊される悲しみが、よりいっそう強調されます。

神話的には帰還というよりエクソダス



回想シーンで、ナチスドイツ軍の行進を、旗を振って熱烈に歓迎するオーストリアの民衆の姿にはゾッとしました。
一昨年に観た映画「ハンナ・アーレント」のことを思い出した。ごく普通の平凡な人が「上司の命令だから」と淡々と極悪非道なことをやってしまう「悪の凡庸さ」(byハンナ・アーレント)。先の戦争の反省をこめて戦争放棄をはっきり宣言した平和憲法をもつ日本ですら、ファシズムや戦争の気配がうっすらしのびよってくる(ような恐怖を感じる)昨今だから、よけいに。

クリムトの〈アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I〉といえば、ベルヴェデーレ宮殿に鎮座するオーストリアの国宝のような絵だったわけですから、オーストリアの人たちからすれば、手放したくなかった気持ちもわかります。

だけど、ここはやっぱり、神話的な解決方法として、エクソダスしなければならなかった、と思う。

ユダヤ系の映画監督にとって(あるいは、ユダヤ系の人材や資本が多いアメリカ映画界においては)、映画とはエクソダス(旧約聖書の出エジプト記)を描くことだ、とはよく言われます。つまり、囚われの身だったユダヤ人がモーセに率いられて脱出して約束の地をめざすという構図が、いろんな物語にセットされている。この映画でも、若き日のマリアがナチスの迫害を逃れて故国からアメリカへ亡命したわけですが、ふたたび今度は、伯母さんの肖像画のエクソダスがリフレインのように描かれなくてはいけなかったし、ランディは囚われていた絵画を解放するモーセ役を果たさなけれいけなかったんだなと思う。

美術品というのは、いくつもの物語をまとっていて、その作品が制作された背景やドラマはもちろんのこと、所有してきた人々の運命も重なっているわけですが、ベルヴェデーレで「クリムトの名画」として展示されるよりも、ニューヨークのノイエ・ギャラリーで、ホロコーストを生き延びた人々の記憶とともに展示されることを、この絵自身が望んだのかもしれない。

この映画よりも少し前に公開されたジョージ・クルーニー監督・脚本・製作・主演の映画「ミケランジェロ・プロジェクト」も、ナチスが略奪した美術品を奪還するために活躍した特殊部隊の実話が元になっていて、合わせて観ると、時代背景がさらに理解できるはず(こっちには「ダウントン・アビー」のグランサム伯爵、ヒュー・ボネヴィルが出演してます)。
(平林享子)