『叛逆航路 (創元SF文庫)』アン・レッキー 東京創元社

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「彼女はたぶん男だろう」----物語がはじまってほどなく、こんな表現がさらりと出てくる。

 SFは遠い未来や異なる文化環境を設定しながら、性差については因習的な制度や常識にいまだ囚われている。そういう批判はこれまで幾度となくおこなわれてきた。たとえばアーシュラ・K・ル・グィンは『闇の左手』で両性具有者だけが暮らす社会をキメ細かなリアリティをもって描きだしたが、その作品でさえ、三人称の呼称「彼」をぬぐいさることはできなかった。ル・グィン自身も代名詞の使用には逡巡があったようだが、この作品を発表した当時(1969年)は、無性の三人称を創案すると文章が----ル・グィンが書いて読者に伝える英語が----だいなしになると判断した。もちろん、『闇の左手』での「彼」は性によらぬ包括的な代名詞だと了解はできるのだが、「彼」という単語を目にする読者は無意識ながらに「男性」のイメージを投影してしまう。言葉の問題はじつに厄介だ。

 アン・レッキーは2013年発表の『叛逆航路』で、いっそ大胆に「彼女」を用いる。この作品は遠い未来の星間文明を扱っており、覇権を握っている専制国家ラドチでは、誰も性別を気にせず(生物的な性は存在しているが)、言語的にも性差は存在しない。ラドチの「彼女」は、日本語の"そのひと"と同じように性の区別がない。

 ラドチ以外の国家では性差が社会常識に組みこまれているので、ラドチ出身者が異郷へ行くと「意識の視差」みたいなものが生じるところが興味深い。主人公ブレクは辺境の惑星ニルトで住民と接触し、厄介ごとにならぬよう、まず相手の性を特定しようとする。性の取り違えはおうおうにして侮辱になるからだ。しかし、外見からは判断がつかない。そこで性差を含まぬ言葉遣いをしようとするが、性差社会の言語には代名詞だけではなく性別が根を張っており、よほどの慎重さが必要となる。

 性差のないラドチは因習から脱却した進歩的な社会だろうか? そのあたりもこの作品の面白いところで、ラドチは絶対的な支配者を頂点とする階級社会なのだ。家系が重視され、個人と個人が交わした庇護関係(クリエンテラ)は、家と家の関係として代々引きつがれていく。庇護関係は厳格な社会契約であり、保護者は被保護者に財政的・社会的援助を約束し、被保護者は保護者に奉仕・貢献する。

 反時代的で息苦しい封建制度のように思えるが、おそらく社会制度に反時代的も進歩的もなく、それが機能するか機能しないかなのだろう。ジャンルSFはアメリカで培われたせいで、ざっくりと民主主義・平等主義がデフォルトだ。そこにオルタナティヴな観点を持ちこんだのがル・グィンの諸作であり、フランク・ハーバートの『デューン』であり、1970年代に隆盛した文化人類学SFだった。『叛逆航路』もその系譜に位置づけられる。ただし体制的なSFへのカウンターというふうではなく、ずっと中立的で(レッキーはラドチ社会を肯定的に描いているわけではない)、物語を際立たせる背景として選んだように思える。

 ラドチは他の人類文明を侵略・併呑して版図を拡大している(人類以外の知的生命体----蛮族と呼ばれる----も存在して軋轢が起こるが、それはまた別の問題だ)。ラドチにとって他国家の併呑は「文明の伝播であり、正義と礼節、宇宙への裨益」なのだが、併呑される側にしてみれば「すさまじい破壊と殺戮」にほかならない。併呑した惑星から徴用された人間は、脳に宇宙戦艦のAI人格を強制上書きされ属躰(アンシラリー)となる。この作品の主人公ブレクも、もともとは戦艦〈トーレンの正義〉の属躰だった。四千体ほどいる属躰たちの知覚、知識がすべて統合されて〈わたしたち〉が構成されていたのだが、ある事件によってひとつの属躰だった〈わたし〉が分離されてしまう。〈わたし〉になったブレクは「それ以前から分離の可能性はつねに内在し、いつでも起こりえることだった」と内省する。この意識は重要だ。アン・レッキーはひとつの思考実験として属躰の統合/分離を扱っているが、そこにはアイデンティティ一般の問題が反映されている。人間はひとりの〈わたし〉でありながら、何らかの共同体・文化集団の〈わたしたち〉だからだ。

 統合/分離による精神的屈折を被っているのはブレクだけではない。ラドチの絶対的支配者アナーンダ・ミアナーイも複数の〈自分〉がおり、そのあいだに不和が生じる。その不和に〈トーレンの正義〉が巻きこまれたかたちになり、属躰のブレクひとりだけが生き延びる。〈トーレンの正義〉にとってかけがえのない人間も犠牲になってしまう。このときからブレクにとってアナーンダ・ミアナーイは仇敵なのだ。ブレクはAI由来だが、戦術上の必要で感情を備えている。

 この物語は、一介の放浪者に身をやつしたブレクが、人類の頂点に君臨するアナーンダ・ミアナーイを倒そうとする復讐劇だ。両者の立場には大きな懸隔があり、直線的には運ばない。ブレクの放浪は二十年近くにも及び、『叛逆航路』はその最終局面にあたる。極寒の惑星ニルトで、ブレクはたまたま〈トレーンの正義〉時代の上官セイヴァーデンと再会し、それがアナーンダ討ちへのはずみになる。

 ただし、セイヴァーデンはブレクのことがわからない。彼女が知っているのはあくまで戦艦であって、属躰の〈わたし〉ではないからだ。しかも、セイヴァーデンが〈トレーンの正義〉に乗っていたのは約千年前だ。セイヴァーデンはやがて別な戦艦へ転属になるが、ある惑星を併呑中に乗艦が破壊され、行方不明になっていた。脱出ボッドで仮死状態になっていたのが最近になって蘇生したのだろう。千年にわたる不在でセイヴァーデンは居場所を失っており(家系も絶え、軍籍も残っていない)、ブレクとはまったく違うかたちだが「分離」されている。

 千年前のブレク(〈トレーンの正義〉)とセイヴァーデンとはかならずしも良いパートナーではなかったし、再会したときブレクがセイヴァーデンと関わろうとしたのも(雪のなかで全裸で倒れている彼女を助けたのだ)よくわからない感情の動きだったのだが、しだいにふたりの歯車が噛みあっていく。友情と呼べるかどうかわからないのだが、そのいわく言いがたい機微をレッキーはみごとに描いてみせる。それと平行して、ブレクが分離するに至った過去の経緯(その背景をなすラドチの政策や状況の変化を含めて)も語られていく。

 練りに練られた設定の銀河帝国小説。森岡浩之《星界》シリーズの超シニア・バージョンといった味わい(なにしろブレクは二千歳、セイヴァーデンは千歳だ)。

(牧眞司)