出光佐三〈1975年撮影) 共同通信社

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「国のため/ひとよつらぬき/尽くしたる/きみまた去りぬ/さびしと思う」

 これは昭和天皇が出光興産創業者・出光佐三の追悼に寄せた歌である。日本人としての誇りを忘れず、外国と渡り合い石油と自信を国民に取り戻した出光の「外交」とはどのようなものだったのか。作家の水木楊氏が解説する。

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 敗戦後の占領下では、石油の元売り業者は石油の取り扱いを許可されたものの軒並み欧米の国際石油資本(石油メジャー)との不利な提携を強いられ、それを受け入れざるをえない状況だった。その中でも出光興産はそれを拒み自立を貫いた。

 出光は1951年に建造された自前の巨大タンカー・日章丸(二世)を駆って石油メジャーの目をかいくぐり、各地でゲリラ的に石油製品を買い付けては日本に輸入し、より安値で販売した。

 民族資本の雄として既得権益に対抗する出光の胸中には、主権回復後もなお独自の石油政策を持てない日本への憂いが渦巻いていた。そんな状況を自ら打開するために立てた計画が、イラン石油の買いつけだった。

 イランとの取引に成功すれば、国民に安価な石油を提供できる。石油メジャーに牛耳られた現状から、出光のモットーである消費者本位の石油政策への転換を促せる。そしてそれは、戦後日本の復興のためにはなくてはならないことだと出光は感じていた。

◆「日章丸、万歳」
 
 だがこの計画にはリスクがあった。戦後のイランはかつての宗主国・英国資本のもと政府にも国民にも利潤が行き渡らない状況だった。

 そこでイランは石油国有化を表明。それに怒った英国はペルシャ湾に艦隊を派遣し封鎖、イラン石油を買おうとするタンカーには実力行使も辞さない構えだった。行けば国際問題になるだろう。拿捕、機雷による沈没の危険性もあった。

 それでも出光は日章丸の派遣を決断した。英国資本による搾取の歴史と経済封鎖の実状を知るにつけ、むしろ大義はイラン側にあると判断したのだった。ペルシャ湾に向かう日章丸の船員に送った檄文で出光はこう述べた。

「ここにわが国は初めて石油大資源と直結した、確固不動たる石油国策の基礎を射止めるのである」

 政府が政策を打ち出せないのなら、自らが実証してみせようと言わんばかりだった。

 1953年4月、日章丸が英国の目を盗んでイランのアバダンに入港すると、外電を通じてこの壮挙が世界中に知れ渡り大騒ぎになった。敗戦国日本の一企業が、当時世界2位の海軍力を誇る英国に喧嘩を売っているのだ。記者団が殺到する中、出光は悠揚迫らず事の成り行きを見ていた。

 石油で満杯になった日章丸が危険な航海を終えて川崎港に帰着すると、港には「日章丸、万歳」の声が満ちていた。

 同時に英国のアングロ・イラニアン社(現BP社)は積み荷の所有権を主張し東京地裁に差し押さえを求めた。それを受けて出光は乗組員に語っている。

「敗戦の癒えぬ日本は正義の主張さえ遠慮がちであるが、(中略)この問題が提訴されたことは、天下にわれわれの主張を表する機会を与えられたわけで、むしろ悦ばなければならない」

 結果、法廷闘争は出光側の全面勝利に終わった。この「日章丸事件」ほど、敗戦で自信を失っていた日本人の心を奮い立たせた出来事はないだろう。また、イラン国民にとっても日章丸は救国の船であり、今も続くイランの親日感情の土台はこの時築かれたのである。外交不在に等しい時代に一商人が成し遂げた、民間外交の勝利であった。

 こうした成功をもたらした出光の国際感覚は、やはり彼が徹底して「日本人」というアイデンティティを失わなかった結果培われたものだろう。

 人間を大切にし、技術や美徳を次世代に受けついでゆく文化。人間尊重、そして大家族主義。それらの理念は口先だけではなく、例えば敗戦直後に国外の拠点をすべて失った時も、1006名の社員の誰ひとりとして解雇しなかった事実にも裏付けられている。確固たる日本人としてのアイデンティティがあればこそ、日本人は外国と堂々と渡り合えるのである。

「日本人にかえれ」。この一言こそが、出光の思想を余すところなく表現している。

※SAPIO2015年12月号