『鷲の巣』アンナ・カヴァン 文遊社

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『鷲の巣』はカヴァンの代表作『氷』の十年前に発表されている。『氷』では権力者が君臨する迷宮じみた〈高い館〉が描かれたが、本書は〈管理者〉を頂点とする〈鷲の巣〉が舞台となる。

〈鷲の巣〉は、語り手である「わたし」の人生にあらわれた最後の希望だ。不本意な仕事にしがみつき生活的にも精神的にも逼塞していく毎日のなか、新聞で見かけた求人が転機となる。求人主である〈管理者〉に、かつてわたしは世話になった。職を失っていたときに、彼の私邸の図書室における蔵書目録作成の仕事をあてがってくれたのである。尊敬できる〈管理者〉のもとでまた働きたい。手紙のやりとりで〈管理者〉と連絡がついたわたしは、なけなしの金を旅費にあてて指定の土地へ赴く。

 現地についたわたしを出迎える者はない。駅前の露店で花を売っている女に尋ねると「あそこの人はだれもきていない」と言われ、〈鷲の巣〉へはタクシーで行くしかないと教えられる。ここではじめて〈鷲の巣〉という言葉があらわれる。

 タクシーに乗って〈鷲の巣〉まで向かう道程は、異界への没入であり、現実そのものが塗り変わっていくようだ。岩と山が織りなす未開の原野、燃え立つ太陽の色、遠近感の取れない蜃気楼のごとき稜線、狂気じみた巨礫。外界だけではなく、私の精神状態も曖昧になって現実感が薄れていく。急カーヴを曲がると、いきなり光景が変わる。ふんだんの水とむせかえる花に満たされた庭園。そのなかに要塞のような巨岩が姿をあらわす。それが〈鷲の巣〉だった。

〈鷲の巣〉到着後も、わたしは思ったような行動ができない。〈管理者〉は忙しく面会らしい面会がかなわず、使用人たちはつっけんどんで何を尋ねてもはぐらかされる。わたしの腕時計は止まっていて、通された部屋には時計がなく、屋敷のほかの場所でなにがおこなわれているか手がかりになりそうな音もきこえてこない。無為の時間、手がかりのない空間。

 わたしは仕事を得るために〈鷲の巣〉へ来たのだが、待っていても仕事は与えられず、そもそも正式に雇用されているのかもわからない。カフカ『城』の測量士Kさながらの状況だ。状況だけではなく、わたしの感覚も定まらない。トランス状態に陥って幻視にとらわれたり、夢と覚醒との区別がつかなかったり、壁に掛けられている肖像画(〈管理者〉を描いているようだがよくわからない)もときどきで印象が変わる。

 不意に襲ってくるのは現実感の喪失だけではない。わたしのなかにわだかまっている疎外感がいきなり噴きこぼれ、寸前まで語られていたできごとの脈絡さえ断ちきり、ストーリーを追っていた読者を戸惑わせる。その強烈な印象は、薄暗がりで出くわした閃光のようだ。

世界中の誰も彼もが憎い。クリスマス・イヴに外に飛びだして、みんなにわたしのことを知らせたいと切望したことを思い出し、あのときは人との触れ合いを求めていたけれど、じつは誰も彼も憎くてならなかったのだと悟った。

 触れ合いを求めることと憎むことは、アンナ・カヴァンの世界では表裏一体だ。

 彼女の小説はそれぞれが独立しながら相互に照応しており、『氷』を読むことで『鷲の巣』へ深く踏みこむことができ、『鷲の巣』を読むことで『氷』がより鮮明に見えてくる。『氷』に語り手の男と彼の手をすり抜けていくヒロインがいたように、『鷲の巣』ではわたしと秘書の娘ペニーがいる。ペニーはほんらいの名前ではなく、その職種(ペンを使う)による呼称にすぎない。彼女は〈鷲の巣〉のなかで個性を剥奪されている。

 ペニーはわたしに「(自分は)ずっとひとりぼっちだった」「あなた以外に、話し相手になってくれたり、親しくしてくれたりした人はひとりもいなかったんです」と打ちあける。しかし、わたしが〈鷲の巣〉で仕事を得ようとする試みを、ペニーは「自分には権限がない」とはぐらかし、助力らしい助力はなにひとつしてくれない。

 わたしはペニーが自分を裏切っていると感じるが、ペニーもまたわたしに傷つけられている。この抜き差しならぬ関係が『鷲の巣』の魅力であり戦慄だ。

 世界をとざす氷から逃れようのない『氷』と違い、『鷲の巣』の物語は現実的な解釈をつけることができる。すべてを語り手であるわたしの主観とみなし、日常水準のミステリとして読めば「順風満帆の人生を送っていたのに理不尽な理由で没落し、精神を失調した男がはまりこんだ妄想」におさまってしまう。

 しかし、そう結論しても〈鷲の巣〉を満たす圧倒的な幻想が消えるわけではない。わたしを駆りたてる憧憬と呪詛はけっして静まらない。

(牧眞司)