漫画家にとって自分の右腕、左腕を切り落とす行為とは…赤塚不二夫が凄い理由

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タリラリラーンのコニャニャチワ。
今年はギャグ漫画の神・赤塚不二夫先生の生誕80周年にあたる年なのだ。
『おそ松くん』の大胆な翻案アニメ化作品「おそ松さん」が一部で話題になっているらしいが、平成に入ってからの赤塚作品はアニメ化に恵まれなかったので、ヒットすれば嬉しい。


さて、生誕80周年の記念作品『コミック天才バカボンの時代なのだ!』という本をご存じだろうか。少年画報社から9月28日に刊行されたが、いわゆるコンビニ本なので気が付いてない方がいるかもしれない。これは赤塚ファンなら絶対買うべき1冊だ。

本書は、かつてフジオプロでアシスタントを務めた作家たちによる、ほぼ書き下ろしのアンソロジー本である。赤塚不二夫先生は完全な分業制で漫画を描いており、作風もその当時の体制によって異なっている。

第1期:人物担当に高井研一郎、ブレーンに古谷三敏、長谷邦夫を擁した時期。
第2期:近藤洋助をチーフとし、てらしまけいじ、しいやみつのりらが在籍。
第3期:第2期のスタッフのうちしいやみつのりだけが残り、チーフに昇格。

フジオプロは呑んべえ揃い


黄金期と呼べるのは第1期で、わが敬愛するとりいかずよし先生(『トイレット博士』)の他、土田よしこ、北見けんいちらの諸氏を抱え、フジオプロ作品としては古谷三敏『ダメおやじ』なども制作していた。少年サンデーのタケイ記者こと武居俊樹の著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』によれば、古谷がファミリー企画を興して独立する前の『ダメおやじ』には赤塚先生も当たり前のようにブレーンとして参加し、作画も手伝っていたという。第1期のスタッフ在籍時にフジオプロは新宿区中落合のひとみマンションに移るが(『天才バカボン』などの作品にこの建物の名前が頻出するので、当時のファンにとっては聖地であった)、その前は代々木の村田ビル、さらにそれ以前は現在の西新宿五丁目駅に近い新宿・十二社通りの四階建てのビルに入っていた。ここには石森章太郎・藤子不二雄ら(いずれも当時)と共同で設立したスタジオ・ゼロが入っており、そのスタッフとも当然交流がある。

第2期から第3期にかけてのメインスタッフだったしいやみつのりは、2015年1月に単著『赤塚不二夫先生との下落合呑んべえ日記』を発表し、主に第2期の思い出について振り返っている。しいやによればそのころのフジオプロは呑んべえ揃いで、原稿が上がると(上がる前の夜食でも)毎晩大宴会になったという。有名な「天才バカボン原稿紛失事件」もこのときに起きている。当時の担当者はイガラシ記者こと講談社の五十嵐隆夫である。預かった原稿をタクシーの中に置き忘れたと報告された赤塚先生はそれを一切咎めず、宴会に出ていってしまったスタッフを呼び戻してもう一度同じ原稿を書いた。運よくネームが残っていたのだ。『呑んべえ日記』によれば、五十嵐からは感謝の意としてダルマ(サントリーオールド)1本、スタッフそれぞれに対して1万円ずつが贈られたという。このとき紛失した原稿は後に親切な運転手によって届けられた。講談社刊の『天才バカボン秘蔵単行本未収録傑作選』に収録されているので気になる方は現行版と読み比べてもらいたい。

パロディとして秀逸


さて、『天才バカボンの時代なのだ!』である。
全体は3部に分かれており、巻頭には現在のフジオプロスタッフである吉勝太によるパロディ漫画『新作・天才バカボン』が置かれている。バカボンのパパが実はギャグの才能がなく(赤塚先生がゴーストを務めていたのだ)、バカ田大学ゴーストライター研究部のアラガキを代わりに雇ってギャグを演じるという内容である。赤塚先生が存命ならやりそうな遊びが盛り込まれており、パロディとしては秀逸だ。

しいやみつのりは4本の新作を書き下ろしている。その中で注目は「下落合焼とりムービー秘話」だろう。ピンク映画監督だった山本晋也が初めて監督した一般向け映画である同作は、赤塚がジョン・ランディス監督作の「ケンタッキー・フライド・ムービー」に影響を受けて製作した珍作で、タモリ、所ジョージ、たこ八郎、柄本明など当時赤塚と親交のあった人々が大挙して出ている。また、「元・担当小林記者 呑んで笑って40年」も個人的にはたいへん興味のある1編だった。

黄金期の赤塚を支えた3人の編集者がいる。前述の少年マガジンのイガラシと少年サンデーのタケイ、そして少年キングのカネさんこと小林鉦明である。3人の中では『おそ松くん』『もーれつア太郎』『レッツラゴン』を担当した武居がもっとも古株である。サンデーの担当記者は代々、ネームの会議にも参加してアイデアを出すのが慣習になっていた。その究極の形が、ネームを作ることさえ放棄し、武居とのアドリブのやりとりをそのまま下書きとしていたという伝説の作品『レッツラゴン』である。後続の五十嵐はそのやり方がサンデーとの蜜月関係を作っていると見抜き、自分もネーム会議に参加するようになる。どちらかといえば控えめな性格だった小林は、しばしば武居と五十嵐のわりを食わされる役回りだったという。

──キングの仕事は、いつも週末だ。赤塚の疲れもピークに達している。遊び人のあだち(勉。充の兄で、フジオプロのチーフを努めた。故人)が、フジオ・プロに麻雀卓を持ち込んだ。土曜の午後、赤塚は、麻雀に加わっている。腕時計を見てカネさんが、いつものような笑顔を浮かべて言う。
「先生、今、キング落ちました」
赤塚は、麻雀の手を休めずに、
「それなら、もっと早く言いなよ」(赤塚不二夫のことを書いたのだ!!)

もちろん、こうしたキツい一面ばかりが書かれているわけではない。赤塚はスタッフや編集者に対する思いやりを忘れない、優しい人だった。その証拠に、古谷や高井、北見らを独立させて見事に一本立ちさせている。以前にも引用したと思うが『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』の大好きな文章を引用する。

──赤塚は、自分のアシスタントを次々に一本立ちさせる。それは、すなわち自分の作品を痩せさせることだ。右腕を、左腕を切り落としているのと同じだ。アイデアが薄まり、絵が枯れていく。赤塚にも、それが判っている。判っていながら、それをやる。僕は、それを見ていて、本当に立派だと思う。人の道に外れていないと思う。

『天才バカボンの時代なのだ』所収の「ミネ松くん」では峯松孝佳こと吉勝太が、自身がチーフを務めた1987年当時のことを振り返っている。アニメ「天才バカボン」の再放送をきっかけにフジオプロの仕事は増え始めた。「おそ松くん」他のリバイバルした作品が「コミックボンボン」などに連載されるようになったのだ。しかし、それらの名作を生み出したスタッフはすでにいない。

──しかしね…正直言ってこれらの新作マンガはかつての大ヒットギャグマンガを越える内容ではなかったですね。特に絵がひどかった。チーフとして頑張ったつもりでしたが…後年それらの単行本を見てショックでした。(中略)
峯松「先生この本のカバー見て下さい…ボクが描きました…ひどいです(当時アルコール依存症で思うように筆をとれない先生になり代わりボクが描いたカバー絵)」
赤塚「ほ〜。ワハハハッ、こりゃひっどいねえー。でもな…ここに誰の名前がある」
峯松「赤塚不二夫……先生の名前」
赤塚「オレはね元々絵がヘタなの。だから高井ちゃんとか古谷ちゃんとか、他にも上手なヤツに手伝ってもらってやってたんだよ!! それが元に戻っただけなんだよ。だからこれはお前の失敗じゃないよ。オレの失敗!!」

赤塚作品の優しい一面


本書には3作の赤塚作品が再録されている。そのうちの1編「トキワ荘物語」は、親友・石森章太郎との友情を描いたものだ。最初の連載作品「ナマちゃん」は石森のアドバイスから生まれた。そうした人の縁を赤塚先生は大事に、受けた恩を絶対に忘れなかったのだ。
赤塚先生は映画マニアでもあり、その作品には多くの名画の刻印が残されている。少年サンデーにおける最初のヒット作となった「おそ松くん」は、中途からイヤミとチビ太という名優を得て生まれ変わった。六つ子を中心にした人情ギャグから、イヤミとチビ太が狂言回しを務めるギャグ劇場になったのだ。そのころの傑作の1つである「チビ太の金庫破り」が本書に収録されている。刑務所帰りのチビ太と彼を追いまわすイヤミ刑事の確執を描いたもので、『天才バカボン』や『レッツラゴン』の極北のナンセンスとはまた違った、赤塚作品の優しい一面がよく現われた一編だ。「おそ松さん」で赤塚先生を再発見した方にもぜひ「チビ太の金庫破り」を読んでもらいたい。
(杉江松恋)