『汝、コンピューターの夢 (〈八世界〉全短編1) (創元SF文庫)』ジョン・ヴァーリイ 東京創元社

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 ジョン・ヴァーリイは1970年代半ばにアメリカSF界に華々しく登場し、あまりタイムラグなく日本へも紹介された。とにかく新鮮だった。衝撃的なSFではすでにバラード、エリスン、ディレイニー、ティプトリーなどがいたが、ヴァーリイはそうした先鋭的なタイプと異なる「居心地の良さ」があった。それは自閉的なファンタジイなどではなく、世界へ向かって窓を穿つ感覚をともなっている。

『汝、コンピューターの夢』に収められた七篇は、いずれも初期作品(74〜76年の発表)であり、人間が太陽系諸天体へ移住したのちの《八世界》を舞台にしている。《八世界》とは水星、金星、月、火星、土星の衛星タイタン、天王星の衛星オベロン、海王星の衛星トリトン、冥王星だ。人類の宇宙進出後の未来史を扱ったSFは枚挙に暇がないが、《八世界》が先行作品と一線を画すのは「人類は地球から追いだされた」点だ。超越的な侵略者が地球を占拠し、暮らしていた人類は壊滅。月を開拓していた数千人だけが生き残り、その末裔が《八世界》を築いた。つまり宇宙植民は「しかたのない結果」だ。生きぬくうえで大きな手助けになったのは、太陽系の遙か外縁(太陽-冥王星間の約二倍の距離)をかすめるレーザー通信から得た高度テクノロジーである。通信のうち解読できるのはせいぜい一パーセントだが、それだけでも天の恵みだった。

 つまり人間は虫けらのように住処を追われ、かすめとった資源(超技術)にすがって生きている。地球を占拠した侵略者もビーム通信の送信者も、人類なんて些末な存在は一顧だにしない(《八世界》シリーズの第一長篇『へびつかい座ホットライン』でちょっと事情が変わるのだが)。そのため《八世界》では素朴な感覚での発展とか開拓精神はほぼ意味を喪失している。しかし、逆に人類の種としての運命とか国家の威信とか共同体の正義とかそういう大義名分もなくて、妙にすがすがしいのだ。そうしたしがらみの薄さは家族関係にも及んでいる。《八世界》では家族というユニットは母と子で構成され、それも子どもが成人するときまでだ。いわゆる女系社会でもない。性転換がカジュアルにおこなわれ、だれも父にも母にも(その両方にも)なる。近親相姦のタブーもない。

 ヴァーリイのデビュー作にあたる「ピクニック・オン・ニアサイド」では、月の〈うら側〉(地球から望んだとき裏面)に暮らす主人公フォックスが、母親とケンカをして家出をする。フォックスの性転換処置を母が認めなかったためだ。《八世界》では親の子に対する責任/権利が法律上はもちろん慣習上も明確・自覚的であって、成人(十三歳)以前の〈変身〉には親の同意が必要だが、子どもが行きたいところへ行く自由に制限はない(安全上の問題がないかぎり)。フォックスは親友のハロウ(性転換をしてチャーミングな女の子になったばかり)と連れだって〈おもて側(ニアサイド)〉をめざす。侵略者に占拠された地球が見える〈おもて側〉は、心理的な抵抗感のために人が住んでいないはずだった。しかし、そこに世捨て人のレスターじいさんがいて、フォックス、ハロウとともに奇妙な共同生活がはじまる。老人は旧いモラルを引きずっており、性や家族のありかたに対する考えかたが少年たちと異なる。しかし、それが軋轢にならない。フォックスはレスターを「愛すべき愚か者」と見なし、レスターも若者たちに干渉しない。インフラが整っていない〈おもて側〉では毎日なすべきことが多くてたいへんだが、それ以外は気ままだ。読んでいるとなんとなくハックルベリー・フィンとか『十五少年漂流記』のブリアンやゴードンの気分になってくる。

「逆行の夏」も少年が主人公だ。母親とともに水星に暮らすティモシーのもとへ、月で育った姉のジュビラントが訪ねてくる。姉と弟が別々にされたことがひとつの謎だが、《八世界》の家族関係や血縁の感覚は一様ではないのでティモシーも深く詮索しない。ただクライマックスで意外な事実(《八世界》の常識に照らしても)が明かされ、そこへ向かう展開がこの作品の芯になっている。それとは別に、これはボーイ・ミーツ・ガールの青春小説であって(先述したようにここには近親相姦のタブーはない)、素晴らしい景観の水銀洞(バリアを発生させる〈服〉のおかげで肌身に感じることができる)で、ふたりのふれあいと冒険が描かれる。

 金星が舞台となる「鉢の底」も異様な景観が精彩をもって描かれる。どこにいても濃い大気による光の屈折によって鉢の底にいるように感じ、夜でも太陽が沈むことがない。ペチャンコにつぶれた楕円となって東の地平線にかかり、時間経過とともに薄く引き伸ばされついには西の地平線へ移動する。この作品の主人公キクは火星に住むアマチュア地質学者で、〈爆発宝石〉を採取するためになけなしの金と休暇を費やして金星の僻地までやってきた。そこで中古品の義眼(赤外線が見える)が故障してしまい、医療の心得のある少女エンバーの世話になる。彼女はカワウソを連れていてだいぶ生意気な口をきく。そして、いまの境遇を打開したい思惑があってキクにつきまとう。いやあ、これはそのままアニメにできそうなキャラクターですね。

 こうやって見てくると、いずれの作品も男女(性転換をしているしていないにかかわらず)のふれあいやかかわりが、ストーリーに織りこまれていることがわかる。ほかの四篇もすべてそうだ。性的もしくは身体的なふれあいがともない、情緒的なつながりも生まれるが、いわゆるラブストーリー的な「成就」はない。「そしてふたりはいつまでも仲良く暮らしました」を幸福な結末とする価値観は地球とともに滅びている。

 先ほど「ピクニック・オン・ニアサイド」の紹介で、少年フォックスと老人レスターとで考えかたが違っていても軋轢がなく関わっていると述べた。それは自分の価値観を相手に押しつけないからだ。どんな親しい仲であっても。ヴァーリイはカウンターカルチャー以後、70年代のミーイズムの雰囲気が濃厚でそういう意味では懐かしいのだけど、いま読むと一周まわってあらためて新鮮だ。ナショナリズムとかテロリズムとかが身近な圧力として感じられるなかで、ふたたびヴァーリイの視線で世界をながめることができる。

 本書に収録された作品のなかで、ぼくがいちばん好きなのは巻末の「歌えや踊れ」だ。主人公のバーナム&ベイリーはミーイズムの極みで、〈土星の環(リング)〉の宇宙空間に浮遊して暮らしている。バーナムは人間でベイリーは植物由来の知性体で一対の共生チームを構成しており、光合成とリサイクルによって自足している。退屈? そんな心配は無用だ。自分たちのまわりで生起しているものを眺め、耳を傾けるだけでいいのだから。地上にいるひとは想像できないだろうが、ここではすべてが音楽なのだ。音楽にかぎらず太陽系内の芸術活動は〈環〉が中心地となっている。

 バーナム&ベイリーは自分たちが得た音楽をエージェント託すため、土星の衛星ヤヌスへ赴く。業界のルールとして利益のうちエージェントの取り分が大半を占める。エージェントの担当者ティンパニはそのことを申し訳なく思うが、バーナム&ベイリーは意に介さない。彼らが買うものといったら〈環〉で手に入らない微量元素のカプセルくらいだ。バーナムは音楽を通じてティンパニと関わり(彼女自身が演奏者でもある。バーナムと会うまでは芽が出なかったが)、肉体的な接触をおこなう。ふたりにとっては音楽と性交は区別するものではないのだ。

 地球的な感覚ではバーナムとティンパニは身も心も通じあうベストカップルなのだが、バーナムは躊躇もせずに〈環〉へ戻っていく。無頼に生きるとか芸術を追求するとか、そういう思いつめたような考えかたではなく、ごく自然にバーナム&ベイリーとしての自足と孤独が選ばれるのだ。それを描いたこの作品も過度な情緒や作為的な盛りあがりがなく、さっぱりして気持ちがいい。

 本書はヴァーリイの《八世界》全短篇を網羅する全集の第一巻。本国アメリカでも同シリーズだけを集めた本は刊行されておらず、この日本版オリジナル編集は嬉しい企画だ。つづく第二集『さようなら、ロビンソン・クルーソー』は2016年2月の刊行予定。また、これとは別にハヤカワ文庫SFからジョン・ヴァーリイ傑作集と銘打った『逆行の夏』がすでに刊行されている。こちらは六篇収録(そのうち《八世界》シリーズに属する「逆行の夏」と「さようなら、ロビンソン・クルーソー」の二篇が、創元SF文庫の二冊と重複する)。ヴァーリイ作品に接するのがはじめてという方もかつて愛読したベテランファンも、まとめて読んでみたらいかが。

(牧眞司)