『育将・今西和男』 連載第11回
■組織を育(はぐく)む(3)

 来日したハンス・オフトに対して、今西が提案したのは役割分担の明確な線引きであった。ピッチの中のことに関してはすべて現場指揮官であるあなたに任す。一方でその監督の評価も含めた強化、育成、編成人事、広報については自分が行なう。互いに尊重し合って越権行為はしない。それはまた、ドラスティックにチームを変えようとしたオフト自身の要望でもあった。

 ヤマハでは2か月だけの短期コーチであったオフトが、初めてシーズン前のキャンプから日本のチームを見てもらした感想は「選手が人間としてまだ自立していない」というものであった。ヨーロッパから来たプロの指揮官の目には、マツダの選手は終身雇用の会社に入って漫然とサッカーをしているように映った。

「なぜ、自分はサッカーをするのか、自分の人生においてそれはどのように意味を持つのか。それを突き詰めて考えているようには思えない」

 今西にこう求めてきた。「選手がコミュニケーションを取れないのか、取ろうとしていないのか。外国語が出来ないのは仕方がないが、私から積極的に何かを吸収しようとしなければ意味が無い。そこが物足りない。グラウンドの外の仕事として、普段の生活から彼らが自立したコミュニケーションを取れるように教育して欲しい」

 今西の選手に対するコミュニケーション教育は、ここから始まったと言ってもよい。試合ごとにレポートを書いて提出すること、人前でスピーチをすること、さらにはマツダの監督はオフト以降も外国人と決めていたので、英会話を学ぶことも求めた。

 成果は上がり、サッカーの質もそれに伴って変わっていった。1985年にJSL1部に早々に復帰、天皇杯もベスト4に進出した。マツダはそれまでの社風として「スポーツ選手は文武両道を目指す者として社業もこなすべきである。サッカーだけやっているのは許されない」という空気が残っていた。だが、オフトはプロフェッショナルの監督としてこういうことを言った。

「サッカーしかしないのは不勉強と言われるかもしれない。しかし、サッカーを死にもの狂いで追究することで学べることもたくさんある。しかも、それは自分だけではなく、チームメイトと共に学ぶことができる」

 1986年には1部で7位と健闘、1987年には天皇杯で準優勝する。最後はケガ人に泣いて2部に落ちたが、オフトは確実にマツダを変えた。契約満了の形でオランダに帰る際、オフトは「このチームの中に将来、名監督になれる人物が3人いる」と言って、日本を離れた。予言は当たる。可能性のある人物はみな、後に指導者として事を成し遂げる。サンフレッチェでJリーグ2連覇を達成する森保一、現在バイエルンツネイシで監督を務める前川和也、ヘッドコーチとして森保を支える横内昭展の3人であった。

 今西は次の監督にマンチェスターUのキャプテンを務めたビル・フォルケスを招聘した。オフトはオランダに戻ってユトレヒトのGMになり、日本との縁は切れたかと思われた。しかし、日本サッカー界は放っておかなかった。

 1991年、日本サッカー協会会長の藤田静夫から会社にいる今西の下へ電話がかかってきた。当時、協会は新しい代表監督を探していた。やはり誰もが日本人監督の限界を感じていた。「オフトはどないや」と京都出身の藤田はずばりと聞いてきた。

「オフトは、これはもう日本代表の監督をさせるには最適の器ですよ」今西は率直な評価を伝えた。「たまたまマツダではタレントがいなくて勝てなかったですが、本当にもう目から鱗が落ちる指導者でしたよ」

「そうか」と藤田は電話を切った。しばらくして練習場に向かいトレーニングを見ていると、グラウンドの事務所から呼び出しがかかった。国際電話が入っているということで受話器を握るとオフトだった。「実は自分のところに日本代表監督のオファーがあった。どうしたらいいか」。少なからず戸惑いがあるようだった。「自分はどうしたいんだ? それが大事だろう。ただ日本協会は、予算的に限界があるぞ」
 
 マツダ時代はオフトに税抜きで年俸を1000万円払っていた。日本代表監督でも当時の協会の予算規模では、1500万か2000万だと思われた。「分かった」と言ったうえでオフトは再び訊ねてきた。「家とか車はどうなのだ?」「家はこちらの方でも準備をしてもらったらいい。家族を連れてくるだろう? 車も買わずにスポンサーから借りたらいい」

 こうしてオフトの日本代表監督就任が決まった。プロ化が成されてJリーグが開幕したタイミングとも重なり、オフトの代表はいきなりダイナスティカップの優勝を飾り、やがてアメリカW杯アジア最終予選を勝ち進んでいく。「スモールフォワード」「アイコンタクト」「トライアングル」......これらの世界標準のワードは、オフトによって持ち込まれたと言えよう。1993年10月28日対イラク戦、ついにはラスト1プレーを凌げば、W杯出場という局面にまで導いた。しかし、最後のセットプレーで失点し夢は潰えた。いわゆる「ドーハの悲劇」であるが、この試合を振り返ったオフトは今西にこんな言葉を投げかけている。

「あの試合、リードして迎えたハーフタイムで選手たちは興奮しまくっていた。あと45分をこのままで逃げ切れば、初のW杯出場が決まるので無理も無いが、明らかに冷静さを欠いていた。私は何度も落ち着けと怒鳴ったが、言葉の問題があって彼らをクールにして指示を飛ばすことが出来なかった。最後の失点はそれも影響したと思う。そばに日本人でしっかりと代弁してくれる人材がいれば、よかったのだが。そう、だからあのときのロッカールームにイマニシ、お前がいてくれたら、結果は変わっていたのではないかとそう考えるよ」
(つづく)

【profile】
●今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

●ハンス・オフト
1947年6月27日、オランダ生まれ。本名はマリウス・ヨハン・オフト。現役時はフォワードで、オランダ1部フェイエノールトに所属。28歳で現役を引退し、指導者の道を歩み始める。1982年、JSL2部ヤマハ発動機に2か月の短期間コーチとして来日。1984年、今西に請われて、JSL2部マツダSCの監督に就任。翌年に1部昇格を果たし、天皇杯も制した。1992年、外国人として初の日本代表監督に。国際大会で好結果を出し、1993年ワールドカップアメリカ大会アジア最終予選に臨むが、最終戦でイラクと引き分け、本戦出場はならなかった。その後はジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズなど、Jリーグの監督を歴任した

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko