【サイモン・クーパーのフットボール・オンライン】
■PSG台頭の立役者ジャン・クロード・ブラン(前編)

 ジャン・クロード・ブランは、今でこそ世界をまたにかけて活躍するフットボールクラブの幹部。そんな彼も子どものころは、フランスの田舎暮らしが長かった。「18歳まで(南東部の)サボワ地方で育ち、旅行もしたことがなかった」と、今はパリ・サンジェルマン(PSG)のGMを務めるブランは言う。

 ブランと僕は、パリ南西部のブローニュにあるPSGのオフィスにいる。テレビの横に置かれた写真には、昨シーズン国内で獲得した4つのトロフィーを誇らしげに掲げるPSGの選手たちが写っている。壁には、PSGでキャリアを終えたデイビッド・ベッカムの肖像画が飾られている。ブランは長い道のりを歩んできた。

 高校を卒業した後、ブランはニースにあるCERAMビジネススクールに進んだ(CERAMは2009年にリール商業高等学院と合併し、現在のSKEMAビジネススクールになった)。ニースを選んだのは、親戚がいたので町をよく知っていたためでもあったが、ソフィア・アンティポリスというサイエンスパークにあるCERAMのキャンパスに魅力を感じていたことも理由だった。

「当時は時代の先端を行くエリアで、企業、研究機関、大学が1カ所に集まっていた。この3つが混じり合っている点が気に入った。他の場所では起こりえないことが起こるに違いないと思えた」

 学生のときから、ブランはスポーツの世界で仕事をしたいと考えていた。80年代半ばのスポーツ界はビジネスとしては小さかったし、「私にはコネも何もなかった」と、彼は言う。

「でも私はつねに、それなりの企業がやる気になればスポーツ界を必ず発展させられると信じていた。(タレントのマネージメント会社である)IMGのマーク・マコーマックのような人もすでにいた。その分野の第一人者であり、同時に生みの親ともいえる人物だが、彼はさまざまなイベントを手がける前に偉大なスポーツ選手の代理人の仕事から始めた」

「CERAMには、スポーツビジネスを専門に扱うコースはなかった。そこで私は、主に法律やマーケティング、国際商取引などを勉強し、当時はまだ非常に狭かったスポーツビジネス分野への扉を開け放とうとした」

 CERAMは「土台をつくってくれた」と、ブランは言う。「若い学生だった私は、ビジネスの世界に入るためには、法律や財政、会計、それに交渉の仕方を知らないといけないことを学んだ。さまざまな知識を取りそろえておかなくてはならない」

 しかもCERAMは「私が初めて異文化に触れた場所だった」と、ブランは言う。「私が卒業した学年に外国人はいなかったが、フランス国内のさまざまな地域の出身者に出会えた。『パリの人は、考え方が僕らとは違う。ブルターニュの人は......』といった具合。ソフィア・アンティポリスの環境も勉強になった。『外国企業がここに進出してきている。フランスだけが世界だと思ってはいけない』と考えた。窓をもっと大きく開いて、そこから自分を解き放たなくては、と」

 ブランがCERAMを卒業した1986年、サボワのアルベールビルが1992年冬季オリンピックの開催都市に決まった。「サボワは私の故郷だ」と、ブランは言う。「だから自分にこう言った。『そう、これは私のためのものだ。私はオリンピックの仕事をするんだ』。しかし、多くの人が『これは私のためのものだ。私はオリンピックの仕事をする』と思っただろうと簡単に想像がついた。だから、他の人より本気であることを示さなくてはならなかった」

 彼はオリンピック組織委員会の関係者に会ったが、1年後にまた来いと言われた。「そこでロサンゼルスに行った。まったく自分の意思で」。1984年にロサンゼルスで開かれたオリンピックは税金を使わない商業化された大会となり、近代オリンピックでは初めて黒字を出した。現地に行けば学べることがあるはずだと、ブランは考えた。

 ロサンゼルスに行ったものの、知り合いがいたわけでもなかった。「テニスはけっこうやっていたので、大会に出た。テニスを通じて、オリンピックの組織委員会にいた人たちと知り合えた」。アルベールビルに帰った後、ブランは冬季オリンピックの関係者を再び訪ねた。

「『お久しぶりです。帰ってきました。あれから、ただぼんやり過ごしていたわけではありません。ロサンゼルスに行って、オリンピックがどう運営されたのか学んできました。リポートを書いたので、お役に立つかもしれません』と言った。すると先方は『いつから仕事ができる?』と聞いてくれた。『明日からでも』と答えた」

 オリンピック組織委員会の仕事は、キャリアでの最初の仕事としては理想的だった。「片づけるべきことが山ほどあるから、若い人間でも自信を持って取り組まないといけない。企業が20年間にぶつかる問題に、3〜5年で出会うことになった」

 オリンピックが終わった後、ブランはハーバード・ビジネススクールのMBAコースに入った。クラスメートは多彩な顔ぶれだった。「米空軍のパイロット、南アフリカで非営利組織を運営している人、中国のエンジニア、ニューヨークの金融トレーダー......。自分の専門分野でけっこううまくやっていても、『世界は信じがたいほど広い。これほどさまざまな才能の持ち主がいるんだ』と思わざるをえない」。ハーバードの授業はケーススタディーをグループで分析することが中心だったから、ブランは他人の見方にしっかり耳を傾けることを学んだ。

 卒業するとき、教授たちがブランに言った。「成功にも、いろいろな形がある。きみが本当にやりたいことは何なのか」。もちろん、ブランは明確な計画を持っていた。「ハーバードでMBAを取った人は、あまりスポーツの世界には進まない。実際、私はそういう人に会ったことがない。しかしスポーツの仕事をするという私の決意は、揺らぎようがなかった」

 1994年にブランは、フランスのスポーツマネージメント会社アマウリー・スポーツに入り、CEO(最高経営責任者)となる。2001年にはフランス・テニス協会に移り、やはりCEOを務めた。

 そして2006年、ユベントスがブランをCEOに迎える。イタリアの名門フットボールクラブは八百長スキャンダルの末、セリエBに降格していた。

「そんなタイミングだったから、わくわくするような日々ではない。おびただしい仕事を一気に片づけなくてはならなかった」と、ブランは言う。「100日間でクラブの未来が決まる。その100日間に誤った判断をしたら(ここで彼は手をパンと叩く)、もうおしまいだ。復活するには20年かかってしまう。だが、その100日間に私たちは多くのいい判断をすることができた」
(続く)

サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki