『育将・今西和男』連載第10回
■組織を育(はぐく)む(2)

 今西は現役を引退した後、サッカーから離れてマツダでの社業に専念していた。約7000人の若い社員が暮らすマンモス独身寮の管理運営の仕事を完遂した後は、車の販売に回り、ここでもトップセールスを記録して社内的な評価も高まり、厚生課長になった。そんな今西に、再びサッカー部に戻って来いという声がかかったのは、1982年のことであった。かつて日本リーグ不滅の4連覇を誇った名門は、この時期、三菱、日立、古河の丸の内御三家に加え、台頭著しい日産、読売クラブの新興チームにも押されて低迷していた。

「この苦境の立て直しを託せるのは、今西しかいない」と推したのは本社取締役総務部長の小澤通宏であった。東京教育大の先輩であり、メルボルン五輪の日本代表選手であった小澤も、また会社からサッカー部再建のために部長を要請されていたのである。小澤は社員の自治を尊重するような形で7000人もの寮生を統率した今西の手腕を買っており、片腕として欲した。

「当時の東洋工業が膨張していく過程で、中国6県ないしは九州から労働力として若い人を集めました。他の会社では寮の中でバクチをしたり、未成年が飲酒をしていたと聞いていましたが、そういうことを許してはいけない。この若い人たちの人間教育が重要で、とにかくしっかりと寮で育てようというのが社是(しゃぜ)としてありました。社長の松田恒次さん、耕平さんは、ふるいにかけて優れた人だけを伸ばすというのではなく、全員をしっかり伸ばすんだということを言っていましたからね。

 そういう場所に、今西が柱として会社から据えられたわけです。お前が考えてまとめろと。これはものすごく大変な仕事だったわけです。東洋工業は技能養成校という学校を抱えていて、ここは工業高校のように文部省(当時)管轄ではなく、労働省(当時)管轄なんですね。他校との交流や校内の文化祭とかがなくて、社会への窓が開かれていない。だから情操教育として、寮でサッカーをしたり、音楽を聞かせたり、英会話を学ばせたりして、いろいろな経験を積ませました。難しい10代の若者ですよ。それらも含めて見事にやった。私は元々、今西のリーダーシップ、指導力に目をつけていましたから、それでサッカー部に再び引っ張り込んだわけです」

 2014年にサッカー殿堂入りした小沢はそう振り返った。

 今西は副部長という肩書で13年ぶりにサッカー部に戻って来た。しかし、1983年、マツダはついに日本リーグの2部に降格してしまう。

「新日鉄も2部に落ちて、勢力図が変わってきたんですね。ホンダが宮本征勝さんを監督にして、ちょうど強くなってきた頃です。ブラジル人選手を何人か入れてね。選手のレベルを比較して、これはヤバイと思い、最初は他のチームの分析をやったわけです。どうして日産が強くなったのか。これからは、もう会社もサッカーを中心に仕事をする選手を認めてもいいんじゃないかと思って進言したんですが、最初は『マツダは文武両道で行くんだ』と聞き入れてもらえなかったですね」(今西)

 こうなったら、今西、お前が監督をやれ、43歳でいきなり監督をやれと言われて戸惑った。それでも自分がサッカーで、この会社に入れてもらったことを考えると、言下に断るわけにはいかない。恩返しのつもりで奉職しようと腹を括った。

「分かりました。しかし、自分が今から現場を指導するのは無理です。このチームを救えるのは、外国人指導者ですよ。それも選手の技術の高い南米型ではなくて、ヨーロッパの人材です」

 今西は総監督の立場を取りながら、実質的な指揮官はコーチに据える外国人指導者に任せようと考えていた。「その人材はいるのか?」

 プロ化する前の日本リーグのチームでしかも2部リーグに降格したばかりである。当然ながら予算はない。今西にはひとつ腹案があった。

 ヤマハ発動機でコーチをしていたあのオランダ人なら、可能性があるのではないか。1982年に2か月だけ、2部のヤマハを指導したあの男はその短期間で劇的にチームを変えていた。1部に昇格させたうえ、天皇杯で優勝させたのである。

 13年間、現場から離れていたとは言え、日本サッカーそのものはウオッチし続けていた。そんな今西が初めて見るモダンなスタイルをヤマハは構築していた。

 ハンス・オフトという名前を会社に出した。元々、今西はオフトの存在を早い段階から掴んでいた。教育大の1年先輩で清水東の監督をしていた勝沢要から、高校選抜を率いてヨーロッパ遠征をした際にオランダ・ユースの優秀な指導者に世話になったという話を聞いていた。それがオフトであった。北米マツダの副社長を務めて海外経験の豊富な小澤も、すぐに賛成してくれた。

「これからいい選手をたくさん取ることはできない。それなら監督に賭けて、組織で勝っていこう」
 
 今西は1984年の1月にベルギーに飛び、マツダのブリュッセル支社でオフトと向き合った。オフトが暮らすオランダのザイストからは、車で1時間半の距離であった。4月の開幕に間に合わせるためには、もう決めてしまわなくてはならない。条件も預かってきた。

 オフトとは虚心坦懐(きょしんたんかい)に話し合った。

 ―― 私はこれまで選手、指導者としては大きな仕事をして来られなかった、だから、あなたの力が必要と考えてやって来た。ヤマハでいくらもらっていたのか、今それに対して、マツダが出せるのはこれがマックスである。実質的に、あなたにはプロの監督として現場を任せるが、チームのグランドデザインは、私の担当なので、選手採用については私も権限がある......。

 オフトもまたギラギラした目で、自らの出自から情熱的に語った。

―― 自分の父親はアフリカ系での黒人で移民としてオランダに来た、なぜならば、オランダがヨーロッパでは比較的差別が少ないからだ、自分はいろいろなものと闘いながら生きてきた。日本のサッカーにはディシプリン(規律)が、まだ足らないと思う。

 腹を割った話し合いは実を結び、のちに日本代表監督に就任するオフトは、推定約1000万円の年俸でマツダの指揮官として来日することが決まった。
(つづく)

【profile】
●今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

●ハンス・オフト
1947年6月27日、オランダ生まれ。本名はマリウス・ヨハン・オフト。現役時はフォワードで、オランダ1部フェイエノールトに所属。28歳で現役を引退し、指導者の道を歩み始める。1982年、JSL2部ヤマハ発動機に2か月の短期間コーチとして来日。1984年、今西に請われて、JSL2部マツダSCの監督に就任。翌年に1部昇格を果たし、天皇杯も制した。1992年、外国人として初の日本代表監督に。国際大会で好結果を出し、1993年ワールドカップアメリカ大会アジア最終予選に臨むが、最終戦でイラクと引き分け、本戦出場はならなかった。その後はジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズなど、Jリーグの監督を歴任した

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko