『育将・今西和男』 連載第9回
組織を育(はぐく)む(1)

 今西が育て上げてきたのは個としての選手、指導者だけではない。バジェットも少なく、地理的なハンディもあった西端のチーム・サンフレッチェ広島を総監督として、Jリーグがスタートして2年目の1994年ファーストステージで優勝させている。時はJリーグバブルの渦中で、ヴェルディ川崎、横浜マリノスの全盛期であり、まったくのダークホースであったサンフレッチェの初戴冠は注目を浴び、日本サッカー界初のGM(ジェネラルマネージャー)の称号を受けている。

 それは選手個人の人生に寄り添って、そのスキルを上げるだけではなく、チーム全体に目配りをして、トップチームの監督の選定から、普及や育成などを担うアカデミーや下部組織の構築まで、幅広く手がけてきたことの結実であった。特に育成に関しては「日本一の育成型クラブ」を目標に掲げて、10代の少年たちに対して、人間教育を主眼に置いた今西の理念と行動力が成しえたものである。寮がある地元吉田町(現・安芸高田市)との堅実な密着(ユースの選手は全員が県立吉田高校に通学し、同校サッカー部との交流を深めている。学業成績が悪いとペナルティも科される)も含めて、サンフレッチェユースはJリーグの下部組織における模範とさえ言われるに至った。

 この人間育成、組織構築のノウハウをいったいどこで学んだのか? と今西に問うたことがある。「マツダの社員寮の寮長時代に得た経験でしょうかね」という答えが返って来た。

 今西は日本代表にまで上り詰めた後、腰を悪くして1969年28歳のときに現役を引退。それから12年ほど、サッカーから離れていた時期があった。この間、独身寮の管理運営統括に就いていた。ひとくちに寮長と言っても、通常イメージするものとはケタが違う。現在とは異なる高度経済成長期であり、地方から「金の卵」と呼ばれた中卒、高卒の若者たちが頼もしき労働力として、大手企業の工場に次々に参集してきた時代である。

 当時、広島の府中にあったマツダのマンモス寮は全部で9つあり、約7500人が居住していた。それはもはやひとつの町であった。その町の住民をまとめなくてはならない。それぞれの部屋は4人が暮らし、二段ベッドと奥に四畳半という間取りである。皆、血気盛んな10代、20代である。ケンカ、事故、人間関係のトラブル、自殺、さまざまなことがあった。

「自殺した子がいて、そのご遺族に連絡をするときは本当に辛かったですよ。なぜ、見ず知らずの親御さんに私が会わなければならないのだろうか、と考えたこともありました。でもね、『お世話になりました』とご挨拶をされる親御さんの姿を見て、ああ、俺の考えは間違っていたなと反省しました。私は神様じゃないけれども、こうやって預けた息子を亡くされた方が敬意を払ってくださるのを見て、この寮生たちのお世話を精一杯しようと思いました」

 寮内にビールの自販機があり、普通に飲酒がされていた時代に20歳未満の禁酒を徹底した。

 また、当時の寮の管理人は自衛隊出身者が多く、トップダウンで「言うことをきかせる」というやり方が主流であった。しかし、それではもはや若い人材を育てられないと感じた今西は、寮生の間でリーダーを選出させて、自主的に管理をさせる方法の重要性を説いた。寮の主役はあくまでも暮らす若者たちであるという、この自治を重んじる運営の仕方は反発する者もいたが、やがて好評を博し、スムーズに回っていくようになった。

 盆や正月ともなれば、皆帰省していくが、それもできない事情のある者たちのために、率先してハイキングなどレクリエーションを企画し、寮生たちを誰一人として疎外しないように盛り上げていった。

 30歳にして、7500人の居住者をひとつにまとめていくという経験が、後の「今西一家」と呼ばれるサンフレッチェの組織作りに役立ったことは、確かに想像するに難くない。

 さらに1994年優勝の功績から今西は日本サッカー協会の強化委員会の副委員長に就任している。

 日本の代表監督に外国人監督が就任したのは、オランダ人指揮官のハンス・オフトが最初であるが、そのオフトに大きな評価を下したのもマツダ時代の今西である。

「育将」シリーズは、人材と同時に監督や組織構築に辣腕をふるった軌跡も、次週から並行して記していこうと思う。

【profile】
今西和男(いまにし・かずお)
1941年1月12日、広島県生まれ。舟入高―東京教育大(現筑波大)−東洋工業でプレー。Jリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために尽力。サンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼・総監督に就任した。その経験を生かして、大分トリニティ、愛媛FC、FC岐阜などではアドバイザーとして、クラブの立ち上げ、Jリーグ昇格に貢献した。1994年、JFAに新設された強化委員会の副委員長に就任し、W杯初出場という結果を出した。2005年から現在まで、吉備国際大学教授、 同校サッカー部総監督を務める

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko