1915 年(大正4年)から始まった全国高校野球選手権は、今年で100 年を迎えた。それを記念して、野球史に名を刻んだ名監督たちによる激闘の記録と涙のエピソードを取り上げていきたい。第4回目は和歌山県立箕島高校の尾藤公監督。地元の選手を育成して甲子園の常連となった同校。名将の選手育成術と「尾藤スマイル」誕生の秘話に迫りたい。

尾藤公 びとう・ただし

●1942年、和歌山県有田市生まれ。高校時代、箕島で4番を務める野球部員だったが、甲子園出場経験はなかった。卒業後、近畿大学でも野球を続けたが、故障により退部。大学も中退し、銀行員となる。その後、1966年に箕島高校野球部監督に就任。厳しい練習で部員を鍛え上げ、就任3年目のセンバツ大会で甲子園初出場。以後、同校を甲子園の常連校に育て上げる。79年には史上3校目、公立校として唯一の甲子園春夏連覇を達成。この年、夏の選手権3回戦の対星稜戦は、「箕島の奇跡」として、高校野球史に残る名勝負と言われ、現在も語り継がれている。95年に監督勇退後は野球解説者として活躍。2011年に膀胱移行上皮ガンのため死去。享年68。

監督としての甲子園通算成績(部長としての出場含む)

春:出場8回・22勝5敗・優勝3回(1970年、1977年、1979年)

夏:出場6回・13勝5敗・優勝1回(1979年)

高校野球ファンの間でも人気の監督

春夏の甲子園大会で、数々の名勝負を繰り広げた尾藤公(ただし)(元・箕島高校監督)が膀胱移行上皮ガンで亡くなったのは、2011年3月6日。東日本大震災が起きる5日前のことだった。

通夜には尾藤の人徳を偲び、1500人もの弔問客が全国から訪れた。これほどファンに愛された高校野球の監督も珍しい。

尾藤は監督として、春のセンバツ大会優勝3回。夏の選手権大会優勝1回。計4回日本一になり、1979年には春夏連覇を成し遂げている。

過去、春夏連覇を達成した高校は、箕島以外に作新学院(栃木=1962年)、中京商(愛知=1966年)、PL学園(大阪=1987年)、横浜(神奈川=1998年)、興南(沖縄=2010年)、大阪桐蔭(大阪=2012年)と6校あるが、いずれも私立高。公立校は箕島だけである。

地元出身の選手だけで春夏連覇を成し遂げるには、確かな選手育成術が必要である。尾藤が高校球界の「名将」と呼ばれるようになったゆえんである。

日本刀と言われた"スパルタ教育"!

尾藤は1942年10月23日、和歌山県有田(ありだ)市で生まれた。彼が選手育成術に長けていたのは、父親の忠雄が教師だったことと無関係ではない。忠雄は和歌山県立師範学校(現・和歌山大)卒業後、有田郡と有田市の小学校、中学校の教諭を歴任した。

忠雄には持論があった。

「生徒には2つのタイプがある。一つは褒めて伸びるタイプ。もう一つは叱って成長するタイプだ」

尾藤は箕島小、箕島中を経て、1958年に箕島高に入学。4番・捕手として活躍するが、甲子園出場はかなわなかった。

近畿大学に進み、野球を続けたが、ハードトレーニングが仇になり、腰を痛めた。野球ができないのなら、大学にいる意味はないと、2年で中退。親戚が会長を務める和歌山相互銀行に入行した。

モーターバイクでお得意さん回りをし、空が夕日で真っ赤に染まると、知らず知らずのうちに母校の箕島高グラウンドに向かった。ノックを手伝ううちに、OB会から担ぎ上げられ、1966年秋に監督に就任することになった。

当初はスパルタ教育で、選手からは「日本刀」と恐れられた。ノックをするときの目が殺気立っていたからに他ならない。

だが、あることがきっかけで、スパルタ教育の看板を下ろす。

「ある日、上級生が下級生のお尻をバットで殴る"ケツバット"を目撃したんです。ノックをした際に外した腕時計を忘れ、グラウンドに取って返したときでした。私は上級生の胸ぐらをこぶし掴み、拳の目標を定め、生徒の怯えた顔を見た瞬間、ハッと我に返りました。このハッとした瞬間が、何かの啓示だったのかもしれません。拳を生徒の顔に見舞っていたら、後の私はありませんでした」

興奮して「怒る」ことと冷静に「叱る」ことの違いを知るのは、後年のことである。"ケツバット"の被害者である下級生が上級生になった1968年春、尾藤は初めて甲子園出場の切符を手にする。原動力は、エースの東尾修(後に西武)であった。

「当時の東尾は、球は速いが、いわゆるノーコン。東尾らしかったのは、前年秋の近畿大会準決勝の興国(大阪)戦。試合開始のサイレンが鳴った直後、またサイレンが鳴りました。相手の1番打者への初球、頭にぶつけ、救急車が駆けつけたんです」

尾藤は投球も性格も真っすぐな東尾を愛し、"褒め育て"たのであった。

初めて甲子園の土を踏んだ尾藤箕島は、破竹の勢いで勝ち上がる。1回戦は苫小牧東を5対2、2回戦は高知商を2対1、準々決勝は広陵を7対3と撃破。準決勝の大宮工戦を迎える。

尾藤が唇を噛む。

「それまで無欲だったチームが突然変わるんです。マスコミが宿舎に殺到し、"ベスト4に残ったチームの中では、一番強い。優勝候補筆頭ではないでしょうか"と、おだてられ、その気になってしまったんです。私が無用なバントをしたことで自滅し、3対5で負けました」

東尾は、こう語っている。

「9回裏二死一、二塁の場面で打席に入り、本塁打を打てばサヨナラだと思い、一発を狙ったんですが、カーブを引っかけショートゴロになってしまいました」

鬼監督が笑った!尾藤スマイル秘話

1970年4月5日、箕島対北陽(大阪)のセンバツ大会決勝は、球史に残るシーソーゲームになった。

5回裏、箕島が1対2から逆転の口火となる左越え二塁打を放ったのは、1番・田中正(遊撃手)。後に有名になる"尾藤スマイル"誕生の立役者だった。

「初戦の東海大相模戦で、遊撃手の田中がエラーし、ベンチに戻ってくると、私は"あと2、3個は折り込み済みだぞ"とジョークを飛ばしたんですが、"監督の顔を見るとリラックスできません"と口を尖らせるんです。そうかと思い、試しに笑ってみたら、そのあとチームは大逆転。6対2で勝利したんです」(尾藤)

最初は無理やり笑ったため、作り笑いになったが、何度も笑ううち自然な笑顔になったという。

「三振した選手に、本音で"ええ振りやった"と話しかけ、エラーした子供に、"前進して捕りにいったんやから、ええやないか"と、本心から声をかけられるようになり、笑顔がスムーズに出るようになりました」

尾藤の人間野球の始まりである。

1番・田中の二塁打に続き、2番・川端潔(中堅手)が四球で歩くと、一死一、二塁。ここで、尾藤は重盗のサインを出し、成功。二死二、三塁から、投打の柱である4番・島本講平(後に南海、近鉄)がライトへ2点タイムリーを放った。島本は新チームになり、打率4割8分5厘、本塁打8本という成績を残し、「大会ナンバーワン打者」という評価を得ていた。

3対2と逆転した箕島だが、守備のミスから同点に追いつかれ、延長戦に突入。10回表、北陽に1点を入れられてリードを許すと、尾藤がハッパをかけた。

「まだアウトは3つある。最後の1球まで絶対に諦めるな!」

10回裏一死一塁から、前の打席でタイムリーを放った島本が打席に入ったが、三振。涙ながらにベンチに戻ると、尾藤が声を荒げた。

「同点にしてやるから、外に出て、キャッチボールでもしとけ!」

東尾と対照的な性格の島本を、尾藤は"叱り育て"たのである。

1点ビハインドの二死一塁、カウント1ボール2ストライクという場面で、尾藤は大胆な采配を見せる。5番・森下敏秀(三塁手)の勝負度胸を買い、ヒットエンドランのサインを出したのである。

右打席の森下は尾藤の期待に応え、アウトコースの難しいカーブにバットを出し、打球はライト線の同点二塁打になった。

延長12回裏二死三塁から、4番・島本が打席に入った。今度は汚名返上とばかりにライトへ弾き返し、サヨナラ勝ち。箕島が初優勝を飾ったのであった。

翌日の毎日新聞は「総評」に、こう記している。

〈守りのミスを最小限にくい止めたのは、のびのびとプレーする明るいベンチの空気にほかならない。重荷を感じない、楽しいベースボールができるチームが優勝したことは、大会史に意義深い1ページを加えた〉

信任投票で反対票1票を理由に勇退

尾藤の人材活用法は、三原脩(巨人、西鉄などの監督を歴任)が説いた「遠心力野球」に似ていた。

〈選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走ってゆく。この惑星、気ままで、ときには軌道を踏み外そうとする。そのとき、発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とは、それを利用して力の極限まで発揮させる。わたしが西鉄時代に選手を掌握したやり方である〉(自伝『風雲の軌跡』)

尾藤が育てた選手は、先の東尾、島本に加え、定時制に通いながら日本一に輝いた左腕エースの東裕司(1977年春のセンバツ優勝投手)、春夏連覇を成し遂げたアンダースローの石井毅(後に西武。現・木村竹志)、優勝はできなかったが、後年、大リーグでも活躍する吉井理人など、個性派揃いであった。

2回目の甲子園で日本一になった尾藤だが、監督人生は順風満帆ではなかった。1972年春、4回目の甲子園出場を果たしたが、1回戦で倉敷工(岡山)に1対2と惜敗。2年前には全国制覇を成し遂げていただけに、優勝以外は許さないという雰囲気が醸成されていた。

夏に捲土重来を期した尾藤だったが、和歌山県大会3回戦で海南に0対5で完敗。すると、後援会は新監督擁立に動いた。

「たまたま新聞で西本幸雄さん(当時・阪急監督)が選手たちに信任投票をしたという記事を読んだんです。西本さんは桐蔭高校の前身、和歌山中学の出身ですから、親近感を持ち、尊敬していました。それで、私も信任投票をしようと思い立ったんです」

不信任票はたった1票だったが、重く受け止め、監督を辞任。一時期、知人の紹介により、ボウリング場で働くことになった。

そのときの知られざる逸話が明らかになったのは、尾藤が2011年春に膀胱移行上皮ガンで亡くなった翌日の「日刊スポーツ」。

〈ある3年生がスイングを見てほしいとやってきた。駐車場で2人だけの練習をつづけるうち「バツをつけたのは自分です」と明かされた。その夏が終わるまで2人の練習は続いた。2年後、交通事故で教え子はこの世を去った〉

3年生が信任投票でなぜバツをつけたのか、理由は定かでない。ただ、「スイングを見てほしい」と、尾藤の元にやってきたということは、バツをつけたことを悔いていたに違いない。了見が狭ければ、3年生の告白に憤ったかもしれないが、尾藤は3年生を丸ごと受け入れ、毎日、打撃指導を続けた。そこに、尾藤という人間の器の大きさを感じざるを得ない。

監督に復帰した尾藤が、星稜(石川)との延長18回の死闘を制し、公立高校として初めて甲子園の春夏連覇を成し遂げるのは、5年後の1979年だった。

(文中=敬称略)