1867(慶応3)年、享年31で凶刃に倒れた坂本龍馬(shutterstock.com)

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 1835(天保6)年、坂本龍馬は、土佐藩郷士の坂本家に兄と3人の姉をもつ次男坊として生誕。豪商の本家・坂本家の分家だったことから、多大な財産を分与された裕福な家庭に育つ。12歳の時、母・幸が死亡。父・八平の後妻・伊予にかいがいしく養育される。

 少年時代、龍馬はどのような少年だったのか?

 『維新土佐勤王史』や『土佐史談』などの記録によれば、龍馬は12〜3歳頃まで夜尿症の習癖があった。臆病者、愚か者と罵られ、漢学の楠山塾に入学したものの、ハナタレ、小便タレといじめも受け、落ち着きや協調性が欠けていたため退塾を余儀なくされた。

 かたや、7歳から塾に通いつつ14歳で代用教員になった中岡慎太郎の早熟さや、13歳で漢学を修得した桂小五郎の俊才ぶりから見ると、龍馬の成長は、やや晩生の印象は拭えない。少年・龍馬は、かなりの劣等感と闘っていたのかもしれない。

 土佐弁で男勝りの女を「はちきん」という。龍馬の3歳年上の姉・乙女は、身長175cm、体重100kgもある、まさに「はちきん」。龍馬は乙女から、剣術、手裏剣、馬術、水練などをスパルタ式に叩き込まれ、体力も気力も少しずつ鍛えられた。

 また、継母・伊与の前夫の実家・川島家をたびたび訪れ、ポルトガルなどから長崎や下関に入って来た土産話を耳に入れたり、世界地図や舶来品を食い入るように眺めては、見も知らぬ異国への憧れを掻き立てられていた。

 乙女も川島家も、少年・龍馬の成長をそっと見守りながら、龍馬の人格や教養は、滋味豊かに培われていった。

脱藩から、薩長同盟、船中八策、暗殺へ......早熟多感な33年

 1853(嘉永6)年、江戸の千葉道場で剣術修行し、免許皆伝。1861(文久元)年、土佐勤王党に入党し、翌年、脱藩。勝海舟の門人となり、海軍操練所の設立に東奔西走。1865(慶応元)年、長崎に亀山社中の立ち上げ。1866(慶応2)年、薩長同盟の斡旋、海援隊の結成。1867(慶応3)年、船中八策、大政奉還へ......。

 冷静な判断力で時代を見通しながら、稀に見る行動力を発揮した龍馬。黒子的プロデューサーに徹しつつ、倒幕から明治維新に至る次代のシナリオを演出する大役を果たした。

 世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる
(世間は言いたいように言うがいい。自分の行動の真意は、自分だけが知っているのだから)

 京都国立博物館蔵の「坂本龍馬桂小五郎遺墨」に収められた和歌は、脱藩後の1863(文久3)年頃の作。龍馬の行動の意気込みにも、世間に理解されない独白にも読める。公武合体か、尊皇攘夷か、倒幕か――。混沌とした世情の真っただ中、龍馬は勝海舟と出会い、わが身の置き所にも、向かうべき道にも目覚めていた。

 だが、1867(慶応3)年11月15日、龍馬と中岡慎太郎は、京都河原町の醤油商・近江屋の二階で刺客の急襲を受け、凶刃に倒れる。

龍馬はADHD(注意欠陥・多動性障害)だったのか?

 精神医学の知見から、龍馬はADHD(注意欠陥・多動性障害)だったとする学説がある。その根拠は何か?

 ADHDは、人とのコミュニケ--ションが困難な自閉症やアスペルガー症候群と同じように、脳の一部の機能が生まれつき損なわれている神経や行動の発達障害だ。ADHDの子どもは、社会性や感情のコントロールが未発達なので、人付き合いが苦手だったり、落ち着きがなかったり、注意力や集中力が欠けていたり、場の空気が読めなかったりする傾向がある。少年・龍馬の逸話を照らし合わせれば、思い当たる点は確かにある。

 その反面、ADHDの人は、類まれな創造力や行動力に恵まれている人が少なくない。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ウィンストン・チャーチル、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・エジソンの他、J・F・ケネディ、スティーブン・スピルバーグ、マイケル・フェルプスなど、古今東西、ADHDの洗礼を受けた人は天才肌の人が多い。次代を先読みする先取の気性に富み、人の信望を得てエネルギッシュに活躍した龍馬を見ると、なるほどと頷ける。

酒豪の龍馬は梅毒でアルコール依存症?

 一方、龍馬は梅毒に冒されていたという俗説がある。幸徳秋水が書いた『兆民先生』の中に「(龍馬は)梅毒のために髪が後退して額が広くなった」という記述があるからだ。幕末に梅毒が蔓延したのは事実だが、梅毒の脱毛は、虫食い状態になるため、生え際が後退した龍馬は、若ハゲと思われる。坂本家は薄毛の人が多いという研究もあるので、遺伝かもしれない。

 ちなみに、幕末の日本に西洋医学を伝えたオランダ人の医師、ヨハネス・ポンペは「日本人は夫婦以外の性行為に対して罪悪感が薄い。売春宿では性病対策が遅れている。家庭にも性病が蔓延する」と警告している。また、幕末の名医として高名な松本良順は「下層民の95%は梅毒に感染している」と語っている。第二次世界大戦後にペニシリンが普及するまで、梅毒の脅威は続く。

 さて、土佐では、酒豪、快男児、ガンコ者、気骨のある男を「いごっそう」と持ち上げる。龍馬は、毎日1升5合も鯨飲する酒豪。人並み外れた体力にもの言わせる「いごっそう」だったにちがいない。だが、まだ30代とはいえ、アルコール依存症はもちろん、アルコール性の肝炎、肝硬変、胃炎、腸炎、膵炎などの潜在的なリスクが潜んでいた可能性は十分にある。

司馬遼太郎が唱えるマラリア説の根拠は?

 また、龍馬の持病ついて、作家・司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の中で「龍馬の持病は、マラリアである。土佐は南国だからこの病を媒介する蚊が多い。竜馬は子供のころにかかって、ずっとこの持病になやまされている」と書いている。

 マラリアは、マラリア原虫が蚊を媒介して発症させる感染症で、発熱、頭痛、吐き気などを伴う。世界で年間3〜5億人が罹かり、150〜270万人が死亡。サハラ以南のアフリカの小児の罹患が多いが、東南アジア、オセアニア、中南米でも発生する。日本では旅行者が現地で感染し、帰国後に60〜80人が発症している。

 龍馬とマラリアは、どこでつながるのか?『維新土佐勤王史』によれば、1865(慶応元)年5月2日の龍馬の日記『坂本龍馬手帳摘要』に次の記載がある。

 「曽病アリ。依而養生ノ為、宿ヲ外浜町村屋清蔵ニ取。 医ヲ撰ンデ長府かなや町多原某を求、不日ニ平癒スト。期一七日トス」(持病があるので、養生のために外浜町村屋清蔵宅に宿泊。長府かなや町の開業医・多原先生を受診すると、しばらくしたら治る、17日くらいかかると言われた)

 17日間は安静の診断だったものの、2日後に宿を発つ。当時の龍馬は海軍操練所の閉鎖に打ちのめされていた。亀山社中の初仕事になる薩摩への武器の売り込み工作も急いでいた。桂と西郷の思惑の板挟みになり、遅々として進まない薩長同盟の周旋にも忙殺されていた。龍馬はかなり疲れていたはずだ。

 だが、確かに受診はしていたが、マラリアの診断は確認できない。龍馬のカルテは見当たらない。司馬遼太郎は、何を根拠に推測したのか疑問だ。

 1866年(慶応2)年1月23日、龍馬は京都で薩長同盟の会談を斡旋した直後、伏見の寺田屋で伏見奉行・林肥後守忠交(ただかた)の襲撃を受ける。龍馬は、お龍の機転の通報で難を逃れるものの、高杉晋作から貰い受けた拳銃で応戦し、左手親指と人差し指、右手親指関節と中指に深い切傷を負った。

 左手を懐に入れている龍馬の写真がある。龍馬は、その切傷を隠そうと手を懐に入れたのか、それとも胸に燃えたぎる、抑えがたい熱い想いを温めていたのか? 誰も思いもよらない着想や奔放な行動力で次代をたぐり寄せた幕末の風雲児、龍馬。熱狂的に愛される続ける維新のヒーローの持病は何だったのか? その胸の内は、龍馬に質すほかない。


(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。