根本陸夫伝〜証言で綴る「球界の革命児」の真実
【連載第51回】

証言者・下柳剛(3)

 1990年代前半、最優秀中継ぎ投手というタイトルはまだ制定されておらず、抑え投手も1イニング限定の起用ではなかった。それでも、投手分業制は浸透しており、翌日に先発する投手が前日の試合でリリーフ登板するなど、ありえないことだった。にもかかわらず、93年9月28日の日本ハム戦、ダイエー(現・ソフトバンク)の下柳剛は、監督の根本陸夫から信じられない指示を受けた。
「おい、シモ。明日、先発だけど、肩慣らしだ。行ってこい」
 翌日の先発を言い渡されていた下柳は、ベンチに入って試合を見ていた。毎試合前にバッティングピッチャーをこなすだけの体力、体の強さはあったが、さすがにこの指示には驚愕した。当時の日本球界でひとりだけ、昭和20〜30年代の野球をやらされているも同然......。根本を「オヤジ」と呼んで慕った下柳が、その時を振り返る。

■選手間に広まった笑えない噂

「93年のシーズン後半、ちょっと疲れが出てきた時、オヤジに『登録抹消する』って言われたんですよ。オレは『嫌や』って言ったんですけど、『一回、抹消する。ちょっとゆっくりしてこい。お前がいたら使いたくなるから』って(笑)。今にして思うと、あの日本ハム戦の時も、単にオレがベンチにいたから使いたくなったのかもわかりません」

 結局、急な「肩慣らし」で結果がいいはずもなく、下柳は1回を投げて3安打1失点。あらためて「先発前日になんでやねん」と思ったが、なんとか気を取り直して、翌日、東京ドームでの先発登板に臨んだ。

「そうしたら自分でも驚くほど調子よく投げられて。1点取られただけで、プロ3年目で初の完投勝利ですよ。試合後はもう意気揚々と帰りのバスに乗り込んだんですけど、宿舎に戻ったらオヤジに呼ばれて言われました。『明日もベンチね』って。『えっ、完投したのに?』って、がっくりきましたよ」

 起用法も扱われ方もとんでもなかったが、プロ入り2年間で1試合登板だった下柳はその年、一気に50試合に登板。4勝8敗5セーブ、防御率4.13という成績を残した。チームは最下位に終わったが、下柳自身、さらなる成績向上を目指して翌94年2月のキャンプに挑んだ。1年前とは明らかに練習内容が違っていた。

「オヤジが監督になって2年目のキャンプは、毎日10キロ走っていうのがあったんです。これは野手もピッチャーもやる。『その代わり、他のランニングはない』って言われたんですけど、ピッチャーにはめちゃくちゃバント処理させるんです。ストップ、ゴー、ストップで、実はこれがいちばんキツくてしんどい。一塁、二塁、三塁、ホーム、それぞれ何十本かずつやったら、大概の量ですよ。普通、バント処理は形式的にやるだけで、そこまではやらない。だから、それだけやったら強くなります。で、最後に10キロ走らされる。オレでも『嘘やろ?』ってなりました(笑)」

 根本は就任1年目のキャンプ初日に紅白戦を実施。今でこそ、2月上旬に紅白戦を行なうチームは増えたが、当時は経験がなく不満を漏らす選手もいたという。そのなかで下柳は、「オフの間にしっかり準備しとけよ、というオヤジのメッセージ」と受け取った。

 一方で根本は、「キャンプで鍛えても壊すだけ」と、千本ノックのような練習は減らしていた。ところが、翌年のキャンプでは徹底したバント処理に毎日10キロ走など、みっちり鍛えにかかっていたあたり、その方針には見えづらい部分がある。

「そういう面では、大変でしたよ、選手は。オレ自身はおもしろいといえばおもしろかったですけどね。グラウンドでどこからともなくあま〜い葉巻の匂いがすると、『おっ、オヤジ来たんか』ってわかったりとか。笑える話も結構あって、いちばん腹抱えたのは福岡ドームでの試合中。オヤジが審判に抗議しようとベンチを飛び出した途端つまずいて、両足を肉離れして、試合が終わるまでずっとアイシングしてたこと(笑)。オヤジもかわいいとこあるなあと思って」

 反対に、まったくかわいくもなければ、笑えない噂話が選手間で広まっていた。戦後の東京、闇市の時代の話である。根本は硬派学生として渋谷で暴れ回り、界隈のヤクザに一目も二目も置かれる存在だったのだが、この昔話を誰かがしたあとのこと。「オヤジの背中には墨が入っとんちゃうか?」という噂が流れ始めたのだ。

「たとえば、遠征先のホテルに大きな風呂場があっても、オヤジが入ってきたためしがない。『絶対、(墨が)入ってるんや』っていう話になったんです。そしてある日、遠征で試合終わって、バスに乗っている時。オヤジはなにか用事あるらしくて、途中で降りるっていう時に、バーッとユニフォームを脱いでスーツに着替えたことがあったんです。それで『あっ、墨がない!』って(笑)。みんなで『ないな、墨ないな』って安心した、なんて出来事もありました」

 途中でスーツに着替えたのも、監督・根本が編成の仕事を兼ねていたからだった。就任1年目の93年は、チームの成績を上げるよりも、現場で選手の技量を見極めることに注力した。それは下柳自身、随所で感じていたが、同年オフのトレードで投打の主力である村田勝喜、佐々木誠らを放出し、西武の秋山幸二、渡辺智男らを獲得したのには驚かされた。さらに勝率5割を超えて4位に浮上した94年のオフ、FAで工藤公康、石毛宏典も入ってきて再び驚かされた。


■下柳の22年間の現役生活を支えた「根本の教え」

 そして95年、フロント入りした根本に替わって王貞治が監督に就任。前年はリーグ最多の62試合に登板、11勝に4セーブと活躍した下柳だったが、その年はケガの影響で成績が下降。オフにはトレードで日本ハムに移籍する。移籍にあたって、特に根本から声をかけられることもなかった。

「野球界ってそんなものなんです。ただ、日本ハムに移ってから、会えば話はしました。『調子悪くなったらバッティングピッチャーやれよ』って言われたり(笑)。でも実際、自分で調子悪くなったらバッティングピッチャーしてましたからね。すごく大事な練習方法だと思うんですよ。でも現実は、やりたがらないピッチャーの方が多い。カッコ悪いと思ってるんでしょうけど『なにを勘違いしてんの?』と。試合で打たれるのがいちばんカッコ悪いんだよ、って思うんですけどね」

 根本に命じられたバッティングピッチャーが投手・下柳を成長させ、その後の野球人生の支えにもなった。7年間を過ごした日本ハムではリリーフから先発に転向。阪神に移籍した2003年にはローテーションの一角を担い、10勝を挙げてリーグ優勝に貢献する。05年には37歳にして15勝を挙げ、史上最年長で最多勝のタイトル獲得となった。最後は楽天に移籍して引退したが、22年間の現役生活で通算627試合に登板、129勝106敗22セーブ、防御率3.92という数字を残した。

「自分がそれだけ長く現役でやれたのも、全部、オヤジのおかげやと思う。オレは死ぬほど不器用な人間だったから、もう『投げろ、投げろ』でしか覚えられなかった。器用で、頭を使って自分の感覚を身につけることができない人間だった。でも、不器用な人間というのは、感覚を身につけるまでに時間がかかっても、いったん身についたら長く忘れることはない。オヤジはそれをわかっていたと思うんです。要は、オヤジが作るのは選手じゃなくて、職人だったんじゃないですかね」

 常に野球のことしか考えていない様子で、野球に対する情熱がみなぎっていた根本のことを、下柳は「不死身だ」と思っていた。1999年4月30日に根本が逝去した時は、「あのオヤジも死ぬんや」と思った。それから16年が経った今も、怒鳴られ、叱られ、諭された記憶は鮮明に残る。

「オヤジに言われた、野球に役立ついろいろなこと。これは現役の時にずっと頭の中にあって、今でも頭の中に残っています。だから、オレがもし指導者になったとしたら、オヤジに言われたことを選手たちに言うんだろうし、いつか、オヤジみたいな野球人になりたい。オレはそう思っています」

つづく

(=敬称略)

高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki