『戦場のコックたち』深緑 野分 東京創元社

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「これは君の戦争 これは僕の戦争 みんなの戦争 勝利をつかみ取れ」

 第二次世界大戦が勃発し、アメリカ合衆国の隅々に志願兵を募るポスターが貼り出されるようになった。17歳のティモシー・コールが住む、ルイジアナ州の田舎町も例外ではない。彼の生家は「コールの親切雑貨店」を営んでいた。店の切り札はティモシーの祖母お手製の惣菜の数々だ。平和に暮らしてきたコール家の人々は、当然のようにティモシーの決断に反対した。しかし意志は固かった。誰もが戦場へ往く。それに乗り遅れることはできない。ティモシーはポスターの文句を借りて「僕らの戦争」なんだと繰り返し、祖母のレシピ帖を1冊、お守り代わりに持ち出して、戦場へと向かう列車に乗った。

 しかし、新兵訓練の日々の中でティモシーが見出したのは、銃を撃つよりも他に自分には適性があるのかもしれないということだった。厨房の特技兵として働く同世代の青年、エドワード・グリーンバーグ(器用だが、とんだ味音痴)に触発され、彼は軍隊内のコックとなることを志願する。ただしコックといっても敵襲があれば銃を取って闘うわけで、生命の危険があるという意味では他の兵士となんら変わりはない。錬成訓練の後、五等特技兵に昇格したティモシーは、合衆国陸軍第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊、第3大隊G中隊に配属される。

 初陣はDデイ、すなわち1944年6月6日に行われたドイツ占領下のヨーロッパへの侵攻作戦、通称ノルマンディー上陸作戦である。

 深緑野分『戦場のコックたち』(東京創元社)は、著者初めての長篇作品であり、若き兵士の視点から第二次世界大戦の日々を綴った戦争小説である。本篇は5章に分かれており、随所にミステリー的な謎が仕掛けてあるという趣向だ。

 第1章では、慣れないパラシュート降下でコタンタン半島(現・フランス)への降下を果たしたティモシーが早速戦場コックとしての任務を果たし始める。イースヴィルという村の民家が野戦病院として借り上げられ、そこに炊事所を設けることになった。G中隊の面々もそこで働き始めるのだが、ティモシーはおかしなことに気付いた。同じ中隊の機関銃兵ライナス・ヴァレンタインが、兵士たちの予備のパラシュートを集めて回っていたのだ。その見返りとして酒を1瓶くれるというが、いったいなぜ、そんなものを必要としているのだろうか。ティモシーから話を聞かされたエドワードは、殺伐とした戦場で一時気を紛らわせるための暇潰しとして謎解きをすることを提案する。

 このように、小さな出来事が戦場で観察された違和として提出され、推理によって答えが与えられる。大量の糧食が行方不明になった事件のように一見他愛もないことのように見えるものもあれば、ナチスの恐怖から解放されたばかりの民間人が不可解な形で自殺する、というような悲劇もある。それに対して答えを出すのは、常に冷静なメガネのコック、エドワード・グリーンバーグなのだ。

 物語の形はいわゆる「日常の謎」タイプのミステリーのものを借りている。違うのはティモシーたちがいるのが戦場という非日常であることだが、もちろんそこにも生活の場はあるのだから、日常は成立しうるのだ。

「日常の謎」ミステリーとしての本書の最大の特徴は、各エピソードが鎖状に連なっていることだろう。時間の推移と空間移動(当然のことだが部隊は転戦していく)が伴うので、彼らが一つところに留まることはあまりない。そして、戦争ゆえの残酷さとして、登場人物たちはしばしば唐突な死を迎えるのである。これが本書のもっとも重要な点であるということは、第2章で判明する。第1章で重い役回りを担った人物が、あっけなく死んでしまうからだ。戦場においては誰の頭上にも例外なく死が訪れる。その当然のことが、本書ではくり返し読者に告げられるのである。舞台の上に現われた者は、やがて死を迎える。人が死ぬのが当たり前の戦場であるからこそ、その連環に意味があるという逆説めいた構造で本書は書かれている。ミステリー的なプロットを用いて、作者はある地点へと読者を誘導しようとしている。ある地点、いや、ある情景というべきだろうか。

 鎖状、と書いたが、刺繍の運針に喩えたほうが適切だったかもしれない。たとえば『戦場のコックたち』という題名の持つ意味だ。物語中盤では、主人公たちがコックであるということの意味が薄らぐ瞬間もある。戦闘が激化して、もはや日常の出来事に属する調理という行為に、あまり意味が見出せなくなるからだ。しかし、ぼんやりと遠のいた題名が、再び明確な輪郭を伴って戻ってくる瞬間がある。そのようにすべての要素が、小説の中で埋没したり浮上したりをくり返しながら、明滅しているような小説なのである。常にライトに照らされて安心できる舞台と、役どころを徽章のように胸にくくりつけた俳優によって演じられる芝居がお好きな方は、本書を読みながら戸惑う瞬間があるかもしれない。この小説はどこへ向かって行くのだろうか、と不安になるだろう。そのときにはぜひ「これは刺繍の運針なのだから」と思っていただきたい。埋れた針はどこかに必ず頭を出して、一つの形を作りだす。あまり見たことがない、心に何かを刻みこむような模様がそこには現出しているはずだ。

 刺繍の喩えついでに書くと、本書が模様を形作っているのは、さほど布目の細かくない生地の上である。触ってみると、ところどころに粗さを感じさせる部分がある。全体の情報量は多い。日本の読者にはなじみの薄い事件を扱っているのだから仕方ないことなのだが、私には明らかに書き過ぎと感じられる個所が複数あった(たとえば、パラシュートで旧大陸に降下したばかりのアメリカ人がドイツ語を聞き分けられるだろうか、というような)。しかし、それらは広壮な全体図を織り上げるためにやむなく執った措置なのだろう。個々の情景の細やかさよりも、この著者は物語の全体像を読者の胸に叩き込み、そこから生まれくるものを見せることで勝負している。

 ふんわりとはしていない。ざらついている。当たり前だ。戦争の小説だもの。

 この世のどこかにかつて「これは君の戦争 これは僕の戦争 みんなの戦争」と謳われた戦争があった。その戦争のことを力一杯に書いた、ごわごわした手触りの小説なのだ。

(杉江松恋)