日本初の都市プランナー・浅田孝を知っていますか?

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10月13日に開催する都市カンファレンス「WIRED CITY 2015」に登壇する建築家/建築史家の豊川斎赫は、戦後の都市プランナー・浅田孝のヴィジョンにいまこそ学ぶべきことがあると言う。メタボリズム運動の中心人物であり、何十年・何百年も先の街の未来を見た男・浅田孝とは何者なのか? カンファレンスに先立ち、豊川が浅田孝という人物を3つの角度から語る。

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豊川斎赫登壇!「浅田孝というヴィジョン」
未来の東京を考える「WIRED CITY 2015」10/13開催

2020年に向けて、その先の未来に向けて、ぼくらはどんな東京を、そして社会をつくっていきたいのか。テクノロジーによる都市づくりの可能性を探る「NEW CODE」、“都市開発”を再定義する「NEW DEVELOPMENT」、新しい都市共同体のつくりかたを考える「NEW COMMUNITY」の3つの視点で未来の都市を考える1dayカンファレンスに、国内外から豪華スピーカーが集う。
豊川斎赫は、戦後の都市プランナー・浅田孝のヴィジョンをひも説く。マスタープランからマスタープログラムへ、環境開発、市民参加。浅田孝が見た未来に、ぼくらは何を学ぶことができるのか? 詳細はこちらから。

豊川斎赫|SAIKAKU TOYOKAWA
1973年宮城県生まれ。建築家、建築史家。国立小山工業高等専門学校建築学科准教授。東京大学大学院修了後、日本設計を経て現職。工学博士、一級建築士。丹下健三生誕百周年プロジェクト(瀬戸内国際芸術祭2013)実行委員。「TANGE BY TANGE 1949-1959」展(ギャラリー間2014)ゲストキュレーター。編著書に『群像としての丹下研究室』(日本建築学会著作賞)、『磯崎新建築論集第8巻』など。

浅田孝(1921-1990)を知らない人に、彼の活動領域を説明する場合、「戦後日本の建築家、都市計画家」という言葉をあてるのがいちばん無難かもしれない。しかし、かつて浅田と活動をともにした評論家・川添登は、浅田を「つくらない建築家、書かない批評家、教えない大学教授」と称している。「建築家」という一般的な肩書きよりも、川添の評価の方が、浅田の本質を言い当てているのかもしれない。

1. つくらない建築家

終戦直後から1950年代末まで、浅田は建築家・丹下健三が率いた東大建築学科丹下研究室の大番頭を務め、広島平和記念公園や香川県庁舎の設計監理でその能力を遺憾なく発揮している。いわば、丹下研究室のプロデューサーであり、コーディネーターであった。

一方で、浅田が丹下と離れて取り組んだ建築設計として有名なのが、南極探検隊昭和基地(1956年)のデザインである。日本は1957〜58年の地球観測年に際し、南極に調査隊を派遣することとしたが、その際に隊員が生活する為の基地を建設する必要が生じた。浅田は昭和基地の設計を任された当初、奇想天外なアイデアを次々と出しては周囲を驚かせた。その後、浅田は、落としどころをわきまえて、高断熱プレハブ建築を提案し、荷積みしやすく、軽量で、現地で建設し易い、というハイスペックな建築を実現している。

また、浅田は1960年に開催された「世界デザイン会議」の事務局長を務め、槇文彦、黒川紀章、菊竹清訓といった、(当時の)若手建築家を組織して、「メタボリズム・グループ」を世界に向けて発信した。浅田はメタボリズムの一員というよりは、メンバーを叱咤激励し、さまざまな仕事を差配することを自らの仕事とした。つまり、浅田は明日の建築の思想を若いメタボリストに提示し、彼らに実作のチャンスを与え続けた結果、「つくらない建築家」という称号を得ることになったのである。

2. 書かない批評家

浅田は雑誌の編集にも才覚を現し、雑誌『新建築』の編集顧問も引き受けている。浅田の論点は、家具や建築、地域計画といった目に見える範囲に留まらなかった。つまり、国土・地球・宇宙につながるマクロの世界から、原子核やX線といったミクロの世界まで、神羅万象を横断的にとらえることを得意とした。この発想は、先に触れたメタボリズム・グループの宣言文にも色濃く反映されている。

「メタボリズム」とは、来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループの名称である。われわれは、人間社会を、原子から大星雲にいたる宇宙の生成発展する一過程と考えているが、とくにメタボリズム(新陳代謝)という生物学上の用語を用いるのは、デザインや技術を、人間の生命力の外延と考えるからにほかならない。したがってわれわれは、歴史の新陳代謝を、自然的に受入れるのではなく、積極的に促進させようとするものである。──『METABORISM/1960』

浅田は原子から大星雲に至る壮大な発想をもち、鋭い批評眼を兼ね備えていた。にもかかわらず、浅田の著作は著しく少ない。また、残された著作も決して体系だったものとはいえなかった。この点で浅田は「書かない批評家」であった。しかし、各々の文章の断片に浅田の才気爆発ぶりを読み取ることができる。

3. 教えない大学教授

浅田は丹下研究室に在籍当時から神出鬼没で知られた。例えば、浅田は何も告げずに2週間姿をくらまし、急に研究室に現れると、丹下研メンバーの食事に気を使ったり、得意の話術で彼らを夢中にさせたりしていた。こうしたエピソードから推測するに、浅田は丹下以上に学生との対話が好きで、話題も豊富で、コミュニケーション能力が高く、大学教員に打ってつけの資質を備えていた。しかし、浅田は実際に教壇に立って授業した経験は皆無で、早稲田大学の非常勤講師を引き受けても、教室に顔を出すことはなかった。この点で、浅田は「教えない大学教授」であった。

しかしながら浅田は、飛鳥田一雄・横浜市長や美濃部達吉・東京都知事といった革新政治家のブレーンを務め、自らの社会制度設計を積極的に発信している。例えば1971年、浅田は美濃部の選挙運動を手伝い、「広場と青空の東京構想」を作成している。ここには市民参加の原理とシヴィルミニマム(地方自治体が住民のために備えなければならない最低限の生活環境基準)が高らかに謳われ、これからの東京のあり方をスマートにまとめ上げている。

以上、浅田の多面性を川添にならって3点から切ってみた。浅田にとって設計とは、単に建物をつくることに留まらず、建物の使い手はもちろん、建物を包む環境や宇宙に至る、すべての構成要素を視野に入れ、大胆に構想することを意味した。この点で、浅田は誰よりも建築家であり、批評家であり、大学教授であった、と言えよう。

たったこれだけの説明で、浅田の卓越した設計能力、幅広い視野、そして市民参加への情熱について、読者に伝えきれているかは甚だ心もとない。しかし、この文章を読んで、浅田に対して何らかの興味をもたれた方は、ぜひ、笠原克著『浅田孝 つくらない建築家、日本初の都市プランナー』を手に取って、浅田ワールドに触れてほしいと思う。

「浅田孝というヴィジョン」に、いま、何を学べるのか?
続きは10/13開催「WIRED CITY 2015」で!

2020年に向けて、その先の未来に向けて、ぼくらはどんな東京を、そして社会をつくっていきたいのか。テクノロジーによる都市づくりの可能性を探る「NEW CODE」、“都市開発”を再定義する「NEW DEVELOPMENT」、新しい都市共同体のつくりかたを考える「NEW COMMUNITY」の3つの視点で未来の都市を考える1dayカンファレンスに、国内外から豪華スピーカーが集う。
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