知ってた? ​あの『E.T.』のイラストを描いたのは日本人だった:「ATARI GAME OVER」への道

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編集部より:この連載は1990年代以降ゲーム業界を渡り歩いた黒川文雄さんが往年の名ゲームメーカー、ATARIのゲームビジネスを検証するドキュメンタリー「ATARI GAME OVER」の日本語化に奔走する物語です。懐かしのゲーム機やゲームソフトだけでなく、アタリの創業者(正確には共同創業者)であるノーラン・ブッシュネル氏に突撃取材を敢行するなど、この連載だけでしか読めない内容を10回に分けてお届けします。今回は第6回。連載のまとめページはこちら。

1982年、私は22歳、大学生のころです。今はそのようなことはありませんが、その当時、日本人が海外で働くことは現実味がありませんでした。ドル円レートが250円くらいの時代、海外へ旅立つことそのものが高額所得者か企業の海外赴任者くらいにしか許されていなかった時代だったのかも知れません。

実際に私が初めてアメリカ・ニューヨ−クに行ったのは1987年だったと記憶しています。ニューヨークのガイドマップ編集のサポートを兼ねての観光旅行でしたが、JAL747ジャンボジェットに搭乗するときは少なからず感動を覚えました。

さて、そんな1980年代前半にひとりの日本人がカリフォルニア州サニーベール市のATARI本社の社員イラストレーターとして活躍していたのです。ATARIの絶頂からブランド失墜に至るまでの期間を社員として見つめた日本人が「木村ひろ」氏でした。彼はATARIのゲームパッケージや取扱説明書のイラストの多くを手掛けました。

1972年、ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーによって創業されたATARIは急成長を遂げました。1977年には家庭ゲーム機ATARI2600(VCS)を世界に先駆けて導入、ATARI2600は家庭に居ながらにして業務用でヒットしたゲームを始めとして、テレビを能動型の娯楽ツールに変貌させ、瞬く間に全米1000万台の規模でシェア80%をマークすることになりました。

まさにATARIの絶頂時代の幕開けです。そんな時にデザイナーとして入社した日本人が木村ひろ、その人でした。1950年京都府生まれ。彼のATARIへの入社は1981年3月です。その後、1983 年12月までの3年間勤務しました。

プロフィール:木村ひろ。1950年10月5日、京都に生まれる。ハワイ大学で美術を学び、アート・センター・カレッジ・オブ・デザイン(ロサンゼルス)でイラストレーションを学ぶ。卒業後、約3年間ATARIにイラストレーターとして勤務。その後ニューヨークに移り、フリーランスを始め今日に至る。

ATARIでE.T.やパックマンのパッケージをデザイン


入社して最初に手掛けたパッケージデザインは、映画『ATARI GAME OVER』の中に出てくる『ヤーズ・リベンジ』。その後1982年のクリスマス商戦に発売した『E.T.』のパッケージデザインなど、数多くのATARIゲームカートリッジ関連のデザインを手がけました。

木村氏は当時のATARIに関しての情報がほとんどないままで入社をしてしまい、後になってATARIの会社の成長ぶりやブランド力を知ったといいます。当時は学生結婚をしていたため、毎月の給与がうれしかったと述懐しています。

ナムコからの版権移植作品の「パックマン」のイラストを手掛けたのも木村氏でした。

当時の職場は勢いがあり、デザインチームの人員もどんどん増えていったといいます。しかし、作品そのものが「どれだけ売れたか」などの情報に関しては社内では共有化があまりなされず、『ATARI GAME OVER』の映像を観て、初めて当時の状況を詳しく知ったことも多いというお話しもしてくれました。

『E.T.』ゲームカートリッジのメインイラストを木村氏に依頼をしたのは上司のジム・ケリー氏(『インディ・ジョーンズ/ロストアーク』のイラストを担当)。「テイストが近いから」という理由だったそうです。

劇場に日参してスクリーンのなかのキャラクターをデッサン



映画『E.T.』は1982年6月に北米で劇場公開。ATARIの親会社ワーナーブラザーズのスティーブ・ロス会長の一声でE.T.のゲーム化が決定しました。その時にスピルバーグとユニバーサルピクチャーズに支払った権利料は2200万ドルと言われており、現在のドル円で考えれば約24億円という途方もない金額でした。

しかし、現場でイラストを描く木村氏にとって、もっとも厄介だったことはE.T.のキャラクター全体像が劇場公開時にはあまり明らかにはなっておらず、劇場で映画を観てキャラクターを確認するしかなったということでした。さらにそのイラストの納期も通常は1枚仕上げるのに3週間ほど要したものが2週間を切ったスケジュールで仕上げることを要求されたようです。そんな中で木村氏も劇場に日参しスクリーンのなかのE.T.のデッサンに勤しんだとのことでした。

完成したE.T.のイラストは実際にスピルバーグ監督がATARIを訪問した際に、目の前で監修したとのことですが、主な修正点は主人公のエリオット少年の表情をもうすこし心配顔にすることと、E.T.の指先の修正程度であったと回想しています。

そして年末商戦で『E.T.』は販売されましたが、残念ながらというかカートリッジの製造過多に陥り大量の返品を受け付けることになります。その結果、キャッシュフローが悪化し、社員数が3分の1程度までに減ってしまったそうです。最後は木村氏ひとりでデザイン部門を切り盛りしたようです。

その後、1983年にATARIを去ることになりますが、現在はニューヨ−クを拠点に現在もフリーのイラストレーターとして活躍しています。1980年代、ATARIのゲーム関連商材のイラストを日本人が描いていたということがとても誇らしい気持ちでこの取材を終えました。

今回取材した「木村ひろ」氏との縁はSNSからの繋がりです。私の発信する ATARI GAME OVER の情報を見た木村さんの甥御さんからのメッセージがきっかけ。今回のATARI GAME OVER の日本語版の製作に関わった私の一番の発掘は人とのつながりでした。

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「ATARI GAME OVER」日本語版予告編



黒川文雄(くろかわ・ふみお):1960年、東京都生まれ。音楽ビジネスやギャガにて映画・映像ビジネスを経て、セガ、デジキューブ、コナミデジタルエンタテインメントにてゲームソフトビジネス、デックス、NHNJapanにてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどに携わり、エンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。顧問多数。コラム執筆家。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。黒川塾主宰。株式会社ジェミニエンタテインメント 代表取締役「ANA747 FOREVER」「ATARI GAMEOVER」(映像作品)、「アルテイル」「円環のパンデミカ」他コンテンツプロデュース作多数。