今なおファンの間では、ジャンボ鶴田を“歴代最強の日本人レスラー”と評する声は多い。196センチの長身ながら筋骨のバランスも良く、そのナチュラルなパワーはまさに日本人離れしていた。
 「'90年代の全日本プロレスは、三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明が死闘を繰り広げる“四天王プロレス”が代名詞だったが、鶴田の影響は大きかった。内臓疾患で欠場していた鶴田以上のインパクトを与えるために、4人は身を削る試合をやるしかなかったのです」(プロレスライター)

 入門当初からアブドーラ・ザ・ブッチャーやザ・ファンクスら、海外一流選手と互角の戦いをして素質の高さを示した鶴田だが、その立場はあくまでも絶対的トップであるジャイアント馬場の二番手で、すっきり勝ち切ることはできなかった。そのため“善戦マン”というあだ名を付けられたほどだ。
 「天性の能力で何でもそこそこにこなせるから、懸命になる必要もなかった。そのため鶴田のリング上の表情や立ち居振る舞いが、ファンの目にはどこか真剣味を欠くように映り、人気面でアントニオ猪木をはじめとする新日勢の後塵を拝することになりました」(同)

 長州力らジャパン勢の全日参戦にも、鶴田は「むしろハイスパートの選手との対戦は試合時間が短くて楽だ」と、その全能力を発揮するには至らなかった。
 「鼻柱を狙ってパンチしてきたビッグ・ブーバー(ビッグ・ボスマン)をサブミッションで極めたり、顔面にドロップキックを放った仲野真市を全力のバックドロップで失神に追い込んだり、凄味の片鱗を見せることはあっても、あくまで一時的なものでした」(同)

 そんな鶴田が“怪物”として目覚めるきっかけとなったのが、いわゆる“天龍革命”であった。長州らの新日復帰に伴い、全日のリングの熱量が下がったことを肌で感じた天龍源一郎は、まず鳴り物入りで入団した横綱・輪島を相手に、過剰なまでの激しい試合を展開。阿修羅原と組んだ龍原砲では、サンドイッチの延髄蹴りで、スタン・ハンセンを失神に追い込んだりもした。
 しかし、真のターゲットは鶴田であり、天龍同盟の結成時から「鶴田に本気を出させなければ全日は変わらない」と対抗姿勢を明確にしていた天龍は、'87年から'90年にかけて鶴田と7度のシングル頂上対決を繰り広げている。その中でもファンの間で、鶴田が“マジギレ”したと評判になったのが、大阪府立体育館で行われた三冠ヘビー級選手権試合だ。

 '89年4月18日、鶴田はスタン・ハンセンを下してベルトを統一。しかし、勝ったとはいえ一瞬の隙を突いての丸め込みで、まだ“三冠”という大看板にも、どこかすっきりしない思いがファンの間にはあった。そんな戴冠からわずか2日後、鶴田は天龍を挑戦者として迎えた。
 「天龍革命以降では4度目の直接対決。初戦で天龍がリングアウト勝ちした後、共に反則負けが1回ずつという、全日では珍しい荒っぽい展開が続く中、さすがに鶴田も“天龍戦だけは特別”という意識が生じていたのか、緊張感あふれる面持ちでした」(スポーツ紙記者)

 試合開始から顔面への張り手やサッカーボールキックなど、厳しい攻めを見せる天龍に対し、グラウンドでスタミナを奪っていく鶴田。反撃の糸口をつかもうと、天龍はのど元への逆水平チョップを放つも、すかさず鶴田はビッグブーツを連撃。そして、グロッキー状態の天龍を抱え上げると、力任せに頭からリングへたたき落とした。
 「この一発で天龍は失神。事前のアングルでは、これまで同様に不透明決着の予定だったとの噂もあって、それは試合後、鶴田の“やっちまった”と言わんばかりの戸惑いの表情からもうかがえました。キレて暴走したというわけではないものの、我を忘れた部分はあったのでしょう」(同)

 いずれにしても当時最大のライバルに、絶対的な地力の差を示したのは事実。この頃からファンの間で鶴田の強さが広く認められるようになり、また鶴田自身にも、真の王者としての自覚が見られるようになったのだった。